本所屋敷

No.3> 延岡藩本所屋敷と鬼平犯科帳

今回のトピックス

  池波正太郎作の「鬼平犯科帳」に出てくる延岡藩の本所の下屋敷の記述は間違いです。

  時代小説が、全て正しい事実を元にしているはずと考えるのは大人げないのすが、残念です。
  江戸時代の絵図面には、不正確な物が多く、それを基にしたのだから仕様がありませんが、これまでは、
  それを正す方法がありませんでした。
  内藤藩の資料の様に、まず間違いないと考えられる資料が少ないのが原因です。

    今回の、内藤家の資料の発見で、初めて、延岡藩の本所屋敷の正しい場所が同定できました。
  偶然にも、その屋敷が、やはり、延岡藩を知行とした三浦家の屋敷でもあったというのは、大きな発見でした。

  今は、その面影を残すものはありませんが、この辺だというのはわかります。是非、散策してみてはいかがですか。
  赤穂浪士のかたき討ちのシーンを思い出すのも一興ではないでしょうか。  (2013.8.05)


【1】序

池波正太郎作の“鬼平犯科帳”は火付盗賊改方長官(役)であった実在の長谷川平蔵(宣以=のぶため)を主人公にした小説であり、根強い読書ファンがいることでも知られる小説である。この鬼平犯科帳シリーズの11話中に、「密告」という短編がある。その中に、平蔵の知り合いの百俵取りの御家人・横山小平次なる人物が出てくる。通称、“殿さま小平次”といわれるあまり素行の良くない人物である。平蔵が、その横山なる人物と最初に知り合ったのは、「本所石原町の内藤能登守(日向延岡7万石)下屋敷の中間部屋でひらかれていた博奕場においてであった。」という記述がある。延岡藩の下屋敷は六本木にあったはずである。池波正太郎がいうのだから、本所にあったのかもと思い、調べてみるきっかけとなった。 

【2】本所とは

本所という場所は、東京都内の隅田川下流域の東岸に接した地域で、現在では、JR両国駅があり、相撲の本拠地として有名で、駅前北側に両国国技館がある。
大きく変貌したこの本所で、江戸時代の屋敷跡をたどるのは、古い建物がほとんど現存しないこと、また、道路も大きく変わっていることもあって、一般に易しくない。江戸時代の地点が現代のどこに対応するかの同定作業の基点となるのは、江戸時代から存続する寺社の位置である。本所での基点は、両国駅のすぐ南側にある回向院(えこういん)である。この回向院は、江戸という町が、周辺へ拡大する歴史と密接に結びついている。江戸幕府が開かれて、ようやく落ち着き始めた頃、振袖火事の異名をもつ明暦の大火(明暦3年=1657年)が起きた。

この火事により、江戸の中心部の大名屋敷や天守閣を含めた江戸城が焼失してしまっている。江戸城天守閣は、それ以後、今に至るまで再建されることはなかった。幕府は、この大火後、江戸城の近傍周囲に集中していた大名屋敷を、周辺地区に移転させ、また、延焼を防ぐ目的で広小路などを作って江戸の街並み改造を行うきっかけとなった。この大火事で、10万人ともいわれる焼死者がでて、身元不明者も多く、この時、幕府は、本所の現在の位置に、回向院を作り「万人塚」に無縁仏を祀ったのである。

また、回向院には鼠小僧の墓もあり、この墓の破片を持つと縁起が良いという噂で、現在でも墓はすぐ小さくなってしまう。 回向院の東隣には、赤穂浪士の討ち入り先である吉良上野介の屋敷跡もある。

江戸時代においては、船は輸送の重要な手段であったので、川、堀のそばに蔵が集中した。隅田川の両脇にも幕府の大きな蔵があった。西側には巨大な浅草米蔵があり、本所側には、幕府の材木を集める御竹蔵があった。ともに、船を留める入り掘があった。時代が下がるに従い、御竹蔵の一部が、武家屋敷に変わり、大名の中屋敷、下屋敷が移ってきたのである(後述の図1、図2を参照)。

【3】本所の延岡藩下屋敷とは

鬼平犯科帳に引用された延岡藩の下屋敷に話を戻そう。 小説内では、本所石原町に件の下屋敷があったことになっている。江戸時代幕末の切絵図を見ると、石原町に延岡藩内藤家の屋敷は見つからない。石原町にあるのは、同じ内藤家ではあるが、三河挙母(“ころも“と読む。現在の愛知県豊田市に相当する)藩の内藤山城守の中屋敷と下屋敷である。池波正太郎は、この挙母藩内藤家の江戸屋敷を延岡藩の内藤家と誤解したのか。

いや、待てよ、長谷川平蔵が活躍する時代の切絵図で確認すべきだろう。彼の在位期間は、天明7年(1787年)から、寛政7年(1795年)の時代である。幕末には近いが、幕末の混乱、つまり、黒船の来航(嘉永6年=1853年)の50年前である。この時代の切絵図をいろいろ調べてみた。すると、“新版江戸安見絵図”(寛政9年=1797年)(版元=奥村喜兵衛)(現:国際日本文化センタ-所蔵)の本所石原町のところに、内藤家江戸屋敷があるではないか。同切絵図の本所付近の拡大図を図1に示した。

図中にB点で示すところが、石原町であり、そこに、“内藤のと”(能登守のことであろう)と示された屋敷がある。その切絵図には、家紋も■も●印もついていない。このことは、上屋敷(屋敷に家紋をつける。その向きで玄関の位置もわかる)でも、中屋敷(■印で示す)、下屋敷(●印で示す)でもないことを示している。つまり、抱屋敷(かかえやしき)である。

これで、鬼平犯科帳の疑問は解決したのかと思われたが、ちょっと待てよ。C点にも、内藤ビンゴ(備後守)とある。また、A点にも、内藤のと(能登)(これは●印だから、下屋敷)がある。A点は、横網町(よこあみちょう)である。どれが真実か?と迷ってしまう。ちなみに、この時の延岡藩主は、3代目-内藤政脩備後守(1770〜1790)である(つまり能登守ではない)。この時代の切絵図は、今の我々が想像する地図とは異なり、絶対的に正確無比のものではない。観光地図程度のもので、出版元によって、かなりの違いがあるので、疑ってかかる必要がある。切絵図が間違いか、A点が内藤家の下屋敷で、B点に中間の屋敷があったと考えるのか。池波正太郎の小説が正しいのか?

1600年〜幕末まで、手にはいる数十枚の切絵図をくまなく調べていくと、B点の位置に内藤能登(あるいは備後の守、つまり延岡系)と記したものは数枚しかない。他のすべては、B点C点がそれぞれ、挙母藩内藤家の下屋敷、中屋敷となっているのである。

1例として、明和9年(1772年)の切絵図”分間江戸大絵図“の本所付近の拡大図を図2に示す。
B点が挙母藩内藤家の下屋敷で、C点が同家の中屋敷となっている。(同家の上屋敷は、品川区の現在の慶応大学の近くにある)。A点に、内藤ビンゴ(備後守)と記されている。明和9年(1772年)時点で、延岡藩は、内藤備後守であり、挙母藩は、内藤山城守であり、切絵図の通りである。

先述したように、隅田川のこの付近は、川輸送の中心であり、先述したように、隅田川の両岸に幕府の巨大蔵のあったことが、切絵図にも見える。隅田川の西側(上記切絵図では、上側)が、米蔵であり、9基の桟橋が見える。また、東側(切絵図では、下側)に御竹蔵が見える。

私が見た範囲では、切絵図上のA点に、延岡内藤家の屋敷が現れてくるのは、最も早いもので、1717年ごろからである。そうでない切絵図もあるのだが、遅くとも1730年には何れの切絵図にも記載されている。内藤家の記述が現れる直前と直後の切絵図を図3、図4に示す。

 
図3)分間江戸大絵図[萬屋清兵衛:正徳5年(1715年)]図4)分間江戸大絵図(須原治右衛門:享保2年(1717))

この図3の切絵図では、A点(矢印)は、「三浦イキ(壱岐)」となっている。
一方、図4の当該地には、「内藤右京」とある。1715年から1718年の間に、屋敷所有者の変更があったことを暗示させるのである。

一方、1800年代に入ると、A点が、内藤家の所有ではない事を示す切絵図が増えていく。 そして、1833年ごろになると、上記A点に内藤家敷地ということを示す切絵図が、殆んどなくなっていく。A点のその後は、隣の津軽家に吸収されているようである。 そのことを示そう。文化3年(1806年)の切絵図(図5)は、「内藤のと(能登)」の記述があるが、天保4年(1833)の切絵図(図6)には消えて、かっては隣だった「津軽越中」の敷地に併合されている。

 
図5)分間江戸大絵図(須原屋茂兵衛=文化3年(1806年))図6)分間江戸大絵図:須原屋茂兵衛 天保4年(1833)

地点B点C点が、延岡系の内藤家の屋敷になったことはない様だ。多分、池波正太郎のミスであろうと、切絵図からは結論される。それと、同時期に、話題の石原町のすぐそばに、A点に延岡系の内藤家の抱え屋敷があったは、偶然だろうか。そもそも、A点に、本当に延岡藩の屋敷があったのだろうか?という疑問も残る。

【4】内藤家資料から

明治大に眠る内藤家の資料から、本所に、屋敷はあったのかどうか、どこにあったのかを調べた。上記B点C点が延岡系内藤家の屋敷ではなかったという論証は方法論的に難しいのであるが、内藤家の残る資料には、そのような記述は見つかっていないので、B点C点が、延岡系内藤家の屋敷になったことはないと言って間違いないのではないかと思われる。一方、A点に関する記述は残っており、面白い関連も見つかった。

(1) 延岡系内藤家が本所屋敷を手に入れた事を示す資料

延岡系内藤家(本所屋敷を取得した時は、まだ、延岡に領地替えになっていない。まだ、福島県磐城にいた頃の話)が、A点、つまり、横網町に本所屋敷を手に入れた経緯をよく示す資料が見つかった。図7に示す。 この資料が示す、大意は、

「拝領地はもともと2千810坪あったのだが、内、1,088坪は、承応2年(1653)の御司地として召し上げられた。
その残り1764坪の地は、三浦志摩守の町屋敷と交換した(相対替)。その地は無年貢の抱え屋敷であった。元禄12年(1699)阿部豊後守(老中)に申し上げたところ、この地も囲い家作の屋敷となり無年貢地となった。
正徳5年(1715年)2月23日に、内藤右京亮が、三浦壱岐守に譲り受けたいと申し出て、閏3月14日、許可が出た。」


その経緯と合意書に、三浦家と内藤家の家来の印を押すという書類の写しである。手元にある切絵図の最古のもの(出版=寛文11年=1671年:実際の計測は明暦年間=1650年代後半と言われる。)には、この地点は、確かに三浦志摩の敷地になっているのが確認できた。この資料から、正徳5年(1715年)に、本所屋敷の住人が、三浦壱岐守から、延岡系内藤家敷に移ったことがはっきりわかる。

(2)本所屋敷の場所を示す敷地図

本所屋敷に付いて、もう2件、内藤家に資料が残っている。
本所の抱屋敷取得に際して、幕府への申請の結果の認可の証文が一つである(資料名=“渋谷本所御抱屋敷1件“)。それによると、安永2年(1773年)に抱屋敷として、渋谷の屋敷と、本所の屋敷を申請している。公儀の申請書類なので、最高の公式記録であるから、本所に抱屋敷があったのは間違いない。

残り一つは、屋敷の図面となる資料=“本所御広間絵図”(安永5年=1776年)である。この資料が示す屋敷図を図8に示す。この図8は、上記資料を私が写しとり描き直したものである。これによると、この敷地の北西側に両国川(現隅田川)があり、北東側に「津軽様境通」, つまり、隣に津軽家の敷地があることが分かる。 当時の切絵図と対応させると、A点の屋敷の北側に津軽出羽守屋敷がある。これで、本所の抱屋敷とは、確かに、切絵図内のA点であることがわかる。

この敷地の面積は1680坪である。大名の屋敷としてはむしろ小さいが、それでも、部屋数をみればまずまず大きな建物である。ここには示していないが、もう一つの資料=「仮大広間絵図」によると、それぞれの部屋の用途、使用者の名前が書いてある。多くは、仕事用の部屋に見えるが、その中の一部屋に、「御姫様御居間」というのがある。この建物を、仕事と、殿様一家の住居としても使用した様子が分かる。 敷地の北側に御長屋がある。そこに中間が住んでいたのか。多くの江戸屋敷がそうであるように、敷地内に稲荷がある。延岡のお稲荷さんを勧請したものであろうか。今山神社であろうか。また、東北方向に無常門がある。大名屋敷には必ず付いているもので、葬礼の時だけ使用する門である。

また、先の資料=「仮御広間絵図」(安永5年(1776年))には、この本所屋敷の建設申請とある。この本所屋敷を、1時的に、利用するという意図が読み取れる。この直前に何があったのだろうか。抱屋敷認可の記録のある1773年の前年に、目黒の大円寺から坊主の放火によって起きた火事が、南西の風に乗ってあっという間に広がり、江戸三大火事の一つである明和の大火(明和9年2月29日=1772年)が起きている。この放火犯を捕まえたのは鬼平犯科帳のモデル長谷川平蔵(宣以)の父親で当時の火付盗賊改方長官(役)の長谷川宣雄である。この火事によって、麻布、虎ノ門の上屋敷、六本木の下屋敷が類焼したようである。

この本所屋敷は、切絵図レベルでは、幕末には、内藤家敷地としては消えており、隣の津軽家の敷地となっている。内藤家の資料では、文化6年(1809年)の、公儀への報告書の中には、本所関係は見えない。これ以前に譲渡したのであろうと思い、探したところ、安永8年に800両(其の内100両は、世話人への礼)で、譲渡した資料が見つかった。(2013.7.21加筆)
内藤家が本所の屋敷を手放したのは、なぜであろうか。安政時代に、作られた、内藤家の「安政3年御改革覚書」(1856年)によると、内藤家の財政は破たんしていて、とにかく借金が膨大で苦しい状況で、その中に、江戸下屋敷(六本木屋敷)を手放すことを提案している(実際はされなかったようだ)。しかし、本所の屋敷を手放したのは、この改革案の作成前である。この改革案が直接の原因ではないだろう。ただ、苦しい台所事情のせいかもしれない。内藤家の資料では、中渋谷村にもっていた抱屋敷は、幕末まで所有している。

(3)三浦氏との不思議な縁

ここで、不思議な因縁がある。正徳5年(1715年)、三浦壱岐守から内藤右京亮に本所屋敷の持ち主が変わったことを先に述べた。三浦とはだれか。江戸時代の延岡藩の藩主として、3番目の家系である三浦明敬壱岐守(1692〜1712年)なのである。

三浦明敬壱岐守は、元禄5年(1692年)〜正徳2年(1712年)の約20年間、延岡藩主になっている。その後、三河刈谷藩(愛知県刈谷市)に転封になっている。この三浦氏は、その後も、2度も、転封されており、三浦明敬の3代後である、三浦明次志摩守(藩主時期=1756〜1772年)は、美作勝山藩(岡山県美作市)に転封されて、そのまま幕末を迎えている。当時の小さな譜代大名の典型で、現在の転勤族に相当する。この三浦明次志摩守の側室は、延岡藩初代藩主内藤政樹の娘である。このように、つながりは強いのである

本所屋敷の移動があった1715年当時の延岡藩の藩主は、4番目の家系である牧野氏(1712〜1747年)の時代である。この時、内藤家は、まだ、磐城藩の藩主で、自分が将来、延岡に行くことになるとは夢にも知らない時期である。この時に、三浦氏から、内藤氏が譲り受けているのである。延岡がらみの不思議な縁ではあるが、当時は、両者も、不思議には感じていまい。

(4)B点が延岡藩の仮屋敷であった可能性はないか?

鬼平犯科帳に出てきた石原町の延岡藩の屋敷というのは、B点の屋敷であろうが、これは、池波正太郎の切絵図の読み間違いの可能性が高いと思う。先のA点の横網町の屋敷にしたところで、その後の小説の展開には、何の問題もないのだから、A点の屋敷にしておけば良かったのにと、残念である。

可能性は低いが、B点が延岡藩内藤家の1時的な屋敷になった可能性が全く消えたわけではない。というのは、延岡藩内藤家と挙母藩内藤家は、本家―分家の関係であり、長谷川平蔵の時代の三河挙母藩の藩主内藤政峻(マサミチ)は、延岡藩内藤家の2代藩主内藤政陽(まさあき)の三男で、挙母藩へ養子として行った者である。
その父親である延岡藩内藤政陽自身は、三河挙母藩(当時は、上野安中藩)の藩主政里の実子で延岡藩に養子に迎えられているのである。両家の繋がりの強さを示すものである。また、その後の時代になっても、延岡藩内藤家7代当主の政義は、彦根藩井伊家の出身で延岡に養子に来ており、井伊直弼のすぐ下の弟になる。その時期、挙母藩内藤家5代当主政優は、井伊直弼のすぐ上の兄である。つまり、当時の延岡藩主と挙母藩主は、共に井伊家出身で、井伊直弼を含めて兄弟である。両内藤家は極めてつながりの強い藩同士であるから、屋敷の1時的な借用などがあっても不思議ではないのである。

【5】本所屋敷は、現代地図では、どこに相当するか

本所の内藤家屋敷跡は、現在の地図(図9)で示すと、JR総武線のすぐ南の川端近くであり、地図上に、赤斜線で示した。今や、訪れても、当時をしのばせるものは何も見つけられない。ただ、地割が少し当時をしのばせるだけである。

また、地図にも示したが、すぐそばに、赤穂義士が討ち入った吉良上野介の屋敷(旧本所松坂町)が、元禄時代にあった。その討ち入りのあった 元禄14年12月14日(1703年)における、今回扱っているA点の本所屋敷の主は、その時の、延岡藩主であり、先の一方の話題の人物である三浦壱岐守であった。あの討ち入りの日は、屋敷の人々は、早朝に(現在の時刻で朝4時〜6時ごろ)、異常な騒ぎを聞いたはずである。赤穂浪士たちは、敵を討った後、行進し、すぐ近くの両国橋に向かったが、渡ることを拒否されため、南へ向かい、永代橋を渡っている。その時の騒然さを想像するに難くない。

江戸時代の両国橋は、現在の両国橋の50mほど下流にあった。本所の川向かいは、柳橋があり、今でも、屋敷跡のそばの堤防に立つと、神田川の河口と柳橋の料亭街の名残が見える。ここは、江戸時代の川遊びと、吉原に出陣する男たちの出発地であった。落語の「船徳」の新米船頭が客を乗せて大川(隅田川)に乗り出した時、「ここで、いつも船を3回、回すんでさあ」といった場所である。
また、幕府の御竹蔵の跡は、旧安田庭園や、両国国技館や江戸博物館の敷地となっている。

【資料】

1)図7:内藤家資料=1-4-427:「南本所横網」(正徳5年=1715年)(明治大所蔵)
2)図8:内藤家資料=3-19-41:「江戸本所御広間絵図」(安永5年=1776年)(明治大所蔵)
     内藤家資料=3-19-53:「仮大広間絵図」(安永5年=1776年)(明治大所蔵)

3)図1:新版江戸安見絵図:版元=奥村喜兵衛 (寛政9年=1797年)(現:国際日本文化センタ-所蔵)
4)図2:分間江戸大絵図 :版元=須原屋茂兵衛(明和9年=1772年) (国会図書館所蔵)
5)図3:分間江戸大絵図 :版元=萬屋清兵衛 (正徳5年=1715年)(国会図書館所蔵)
6)図4:分間江戸大絵図 :版元=須原治右衛門(享保2=1717年) (国会図書館所蔵)
7)図5:分間江戸大絵図 :版元=須原屋茂兵衛(文化3年=1806年)(国会図書館所蔵)
6)図6:分間江戸大絵図 :版元=須原屋茂兵衛(天保4年=1833年)(国会図書館所蔵)
7)内藤家資料=2-11-146:「本所屋敷御譲渡証文」(安永8年9月13日)(明治大所蔵) 




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