第39話:第二次長州征伐(12):いざ藝州口へ(後篇) 

No.39> 第二次長州征伐(12):長州征伐にいざ藝州口へ(後編)

 後備担当の延岡藩が広島へ出軍することとなりました。ところが、大阪から広島まで、一月程かかってしまいました。
本陣を構えた直後に、京都に呼び出された士大将は、停戦を告げられ、腑に落ちません。
その正直な気持ちを江戸屋敷への手紙に吐露しています。当時の武士の気持ちを汲み取ることができます。


  
今回のトピックス


    後備担当の延岡藩が藝州(広島)へ出軍することとなりました。
    大阪から1か月程かけて広島に到着しています。なぜそれほどかかったのでしょうか。
    到着して間もなく、突然、京都に呼び出された士大将は、停戦を告げられ、腑に落ちません。

    その正直な気持ちを江戸屋敷への手紙に吐露しています。
    当時の武士の気持ちを汲み取ることができます。

                                 (2016.1.21)

                                           

【1】 長州征伐時の慶応2年の年表

前回(第38話)では、慶応2年7月20日頃までを扱った。
   幕府側による長州への4つの攻め口での攻防は、
   それまでに、全て、幕府側の大敗の様相が明確に
   なっていた。

   前回示した年表を参考のために、
   重複するがここで示しておく。

【2】慶応2年7月20日以降=公方様の薨御(こうぎょ)

この時期の最大の事件は、
   将軍家茂が7月20日に大阪で亡くなったことである
   (薨御)。しかし、その喪は秘密にされ、公表されたのは、
   一月後の8月20日であった。

   家茂の喪については、その儀式も含めて、別の機会で
   扱う予定なので、ここでは、延岡藩との関連を簡単に
   述べるだけにとどめたい。

(1)延岡藩主が、公房様に挨拶のため大阪城に登城
        (慶応2年7月19日)

   大阪滞在時、戦も激しくなって、自分たちの出陣が近いと
   感じ始めた7月19日に、公房様(将軍家茂)を大阪城に訪問する。
   それは、将軍家茂が他界する前日であったので、多分、面会はできなかったであろう。

   実は、この日には、福井藩主の松平春嶽も見舞っており、彼は、障子の隙間から将軍の様子を見て、
   将軍は、もう長くはないと判断していたという記録がある。
   そこに、延岡藩は立ち合っていないであろうが、雰囲気で、将軍は、長くはないということは感じたようで、
   7月21日の延岡藩の記録の中にその記述があるが、その点も、別の機会に紹介する。

   延岡藩は、(将軍がなくなった翌日)7月22日にも将軍を見舞っているのであるが、
   その日の記録は、実に淡白な記述のみである。

   「今朝5時 お供揃いにて公方様 御所労に付き、御機嫌伺いの為、御登城。九時半 御帰り。

【3】 延岡藩本隊の出軍

(1)状況
   慶応元年(1865年)に第二次長征征伐をすると決めて、延岡藩を始め、夏に大阪入りをしたが、
   その後、進展はなく、幕府軍は、大阪で1年を無為に過ごしてしまった。

   朝廷からの長州攻撃の勅命が出て、いよいよ、慶応2年6月に、長州を5つの方面から攻撃することになったが、
   その時点では、薩摩が長州側についていた(薩長連合)ため、実質は、4方面から長州を攻撃することになった。
   兵士の数からは、幕府側が圧倒的に優勢であったが、幕府側は、1年の待機期間があったために
   厭戦気分であり、第一次長州征伐の実績では、戦わずに長州が降伏したこともあり、今度も、
   長州が降伏してくるという安易な気分があった。

   加えて、長州側は、負ければ後が無いという必死さがあるという決戦への意識の差があった。
   そして、特に、長州側が、最新型の銃(ミニエ銃)を大量に備えていたことが、
   この戦いの最大の勝敗を決める要素となっていたのであった。
   兵士の数でもなく、大砲でもなく、銃の数と質が勝因を決めた。

   延岡藩も、大砲は、比較的新しいものも有していたが、銃は、火縄銃が主体の部隊であった。
   この第二次長州征伐で、幕府軍の各藩は、自らの非力を痛感したのであった。
   各藩は、この戦後、最新の銃の確保に走るのである。

   前半の年表に示す様に、戦は、6月7日から各地で始まり、短期間で趨勢は決まって行った。
   後備が任務の延岡藩の本隊にも、出動命令が下ったのは、七月終りであった。
   実は、その時は、歴史からいえば、もう勝敗は決まっていた時期であったが、当人たちは、
   まだ全体像が見えていなかったであろう。

【4】 藝州のいとまごい=7月27日:将軍から陣羽織を拝領

  延岡藩本体にも、藝州口(広島との境)への出陣が決まった(7月22日)。
   そこで、延岡藩は、将軍に挨拶に向かった(7月27日)のであるが、その時は、将軍は既に、他界した後であった。
   まだ、次将軍は決まっていないときであるが、延岡藩は、将軍から陣羽織を拝領している。
   名誉なことだという記録である。右に示す様な記録が延岡藩内に残っている。

   概訳は、
   「慶応二年
    殿様は、今日、御登城遊ばされまして、藝州表への(出張に伴い)御暇を仰せ出でられました。
    その時、(将軍から)御陣羽織一つ 御拝領を遊ばされました。
    御祝儀なことである。御帳(書き記す)
       寅 7月27日


   陣羽織を頂くというのは、今までは、大変、名誉なことで有ったが、この戦では、もう無用の長物であり、
   陣羽織を着た人物が長州側から銃で狙われたという記録がある。
   ある藩では(延岡藩ではない)、殿様が家来に陣羽織を着せて、殿様が逃げたという記録がある。

【5】 延岡藩の出陣の様子を見よう

(1)背景概略:天皇の意見の存在感

   この時の年表を右に示す。
   7月後半になると、長州の4つの国堺の戦で、どこでも、長州藩に圧倒されて
   いることがわかってきた。
   最後の大きな戦が藝州口で起きている(7月28日〜8月7日)が、
   そこでも幕府軍が大敗している。
   延岡藩は、この藝州口の再攻撃に参加するために藝州に向かった。

   そこで、将軍家茂の没後、後継が濃厚な慶喜は、まだ、徳川家宗主にも
   なっていないが時期であるが、自ら、8月12日に出軍して挽回することを
   朝廷に宣言していたが、余りに敗戦が濃厚になってきたので、
   彼独特の気の弱さで、突然、停戦(敗戦処理)の方向へ舵を切り(8月13日)、
   朝廷へ停戦を訴えたが、長州征伐に熱心な孝明天皇は納得しない。

   これまで、孝明天皇の強いリーダーシップが目立っていた。天皇の
   歴史の中でも、後醍醐天皇、光格天皇などと並んで、存在感のある
   天皇である。

   これまで、攘夷に凝り固まった孝明天皇は、幕府との間では、融合策
   (公武合体論)を進め、8.18クーデタで長州に偏った尊攘激派の17人の
   公家を追放し、禁門の変を起こした長州藩は朝敵として、
   第一次長州征伐を命令したのであった。

   この時、朝廷内では、関白・二条斉敬(なりあき:史上最後の関白)などを
   中心とする孝明天皇の意見に極近しい者のみで構成される、天皇にとって
   意見の通る体制ができていた。

   幕府側の敗色が濃厚になってきて、最初は威勢が良かった慶喜が、
   弱気になり、二条関白・賀陽宮(尹宮=二条斉敬)を通じて、
   止戦を望んできた(8月14日)。

   そして、慶喜は、8月16日には、板倉伊賀守を連れ立って朝廷を訪れ、
   停戦するように直談判をしたが、そこでも認められなかった。

   幕府は、8月20日に、家茂の喪を公表し、慶喜の徳川宗家の相続を発表し、
   翌8月21日に休戦の勅命がでた。全部、幕府の希望通りである。

   8月30日には、幕府べったりの朝廷に不満の岩倉具視を中心とする公家が
   クーデターを起こそうとするが、これも、孝明天皇の意見で排除された
  (廷臣二十二卿列参事件)。
   ある意味、孝明天応の孤立化が進んだともいえる事件だった。

   幕府への傾倒が進む天皇へ、不満を持つ者が多い中で、孝明天皇は、
   同年12月25日、突然、崩御した。暗殺の疑念は捨てられない出来事である。

(2)延岡藩の出陣

   年表に書いたように、延岡藩は、将軍に挨拶に行った翌日(7月28日)に、大阪から船で出陣しようとするが、
   風の向きであろうか、実際に船が出たのは、3日後の8月1日であった。

   広島に向かうのに、大阪→堺→多度津(香川県)→広島と進んで、ようやく広島に到着したのは、8月21日である。
   大阪を発とうとして、20日以上も経っているのである。異常に日にちがかかっている理由は不明である。
   確かに、途中、台風も来ているが、それにしても、日にちがかかっている。

   なぜだろうか。戦地へ行きたくない理由があったのかもしれないが、その証拠はどこにも見えない。
   広島城下(現広島市内)、地方町に上陸後、西寺町の円龍寺(浄土真宗:現存)に本陣を構えている。
   延岡藩自体も浄土真宗を藩の宗派にしている縁かもしれない。到着したころには、もう戦は無く停戦状態である。
   8月29日には、御手洗(現 呉市)に本陣を移している。
   京師(京都のこと)に呼び出された延岡藩は、使者3名を送り、9月24日に以下の指示所を受け取っている。

    「 永々の出張 御大儀に思召され、
      藝地より、直に、御在所(それぞれの領国)にお越、一先ず、ご休息 成られるべき


   幕府からは、藝州からの出立についても、各藩へ指定日があり、延岡藩は、9月28日が指定されている。
   殿様は、指示に従い、延岡から出軍した連中と一緒に、延岡に延岡藩の船で帰っている。
   10月2日に呉を発って、10月6日に延岡の川口に着いている。帰心矢の如しで、わずか4日で着いている。

   実は、第二次長州征伐で、先発隊は、別の組織に入って戦ったのかもしれないが、
   殿様が率いる延岡藩の本隊は一度も戦っていないのである。

【6】 中老 原小太郎の江戸への手紙

   当時、延岡藩の中老(家老の下)であるが、今回の遠征では、士大将である原小太郎が、9月24日に藩主に代わって、
   京都に赴き、板倉伊賀守と会い、その翌日の9月25日に江戸藩邸向けに書いた手紙である。
   その手紙は、江戸藩邸には、10月2日に到着している。

   戦地からは、何度も飛脚や、家来によって、大阪屋敷を経て、江戸屋敷に連絡がなされているが、
   この手紙は、その他の事務的な報告とは異なり、原小太郎の心情もよみとれ、
   その当時の幕府側の侍の心情を現しているので興味深いものである。

  
<1>
   

   1)「京師表に出役で、罷り在ります原小太郎から、向こうを、9月25日の丑刻(夜中の二時)に出した便が、
      (江戸に)今日(10月2日)の辰の刻(朝八時)に着いた。諸向に其の便を伝えるようにという趣旨なので、
      その様に、通達する予定である。


   (手紙の内容)
      一筆啓上致し候

      殿様 ひとえに、御機嫌能く 御滞藝に成られています。
      其の表(そちらの)上の様も、ひとえに、ご機嫌能く 成られてのことと存じます。
      恐悦のことでございます。

      ところで、拙者(私)は、本月(9月)12日に早駕籠にて、京師表に向けて 出役いたし、今、京師に居ります。
」 

<2>
   

   2)「広島を発って、今月(9月)15日の朝4時に大阪に着きました。
      16日の夜に乗船して、翌17日朝に京師に着きました。以下は、その時の様子(振合)です。

      従軍しておりました諸家は、坂地(大阪の地)に御呼び寄に成られたので、身を軽くして、
      お休みしたかったけれど、
      藝地(藝州)よりは、坂地の方が、事情も良くわかるというのは、申すまでもないことだけれど、
      一旦大事になった場合は、甚だ、迂闊なことにもなりかねず。如何すべきか。

      かつ、今は、戌、癸亥以来の大変局にて、これからの形像は、
      是より生まれる淵源(エンゲン=根源のこと)になるだろうと観察しておりますが、
      仰せつけなので、上坂致しました。上様等が、御下坂なさらないので、
      すぐに、(こちらが)上京致しましたところ、
      京地の様子(図)は、甚だしく何も漏れて来ず、関白様(二条斉敬)、尹高様、御掛掌が当儀為されています。


<3>
   

    3)「当の儀は、如何なされるべきか、関白様が御参内なされないので、朝廷の大事件は御評議何ともできず、
      上様、何時に御参内されるのか、見当もつかない状態です。
      諸家は、御積り(気持ち)だけは、出ることができるけれど、京に参上する頃合いもわからないけれど、

      加州(加賀藩)だけは、別の意味合いもある様子(色合)で、御発(出立)をなさっているが、
      伺っても、当方には、一向にわからない状態です。

      関東の1戦の前に、大阪での振合が、彷彿とされると見てとっています。
      1朔日(9月23日)、板倉伊賀守様衆(家来)から、御留守居一人が出てきてほしいと伝言がありましたが、
      留守居が居合わせなかったので、(代わりに)鈴木才蔵を差しむけた処、別紙の様な御達を渡されました。


<4>
   

   4)「公用人の田那村勤兵衛を以て、御渡しなられました。
      その御内意に 恐悦至極 致しております。朝意(朝廷の考え)が転変いたしましたのも、時像にて、
      下されました判断は、依って、如何すべきか。 

      藝州に戻るべきか、計り難きことでございます。
      御家(延岡藩)は、数年来の物入りで、険しいことと思われます。
      御預入れが出来ましたら、必ず、施す所存です。上下家臣は、同心で、戳力の意気込みです。
      (朝廷の)御変慮によって、富強の御場合に対抗する振合は、御運があるかどうかの一点におります。

      藝州表には、昨日午刻に、同行いたしておりました石川金三郎に御達を渡し、
      家来を一人差添えて、早速 申し付けて、行かせました。(家老の)内蔵進殿も 
      一旦は、(殿様の)お供を致されることでしょう。拙者は、両三日、御京で見切りをつけて、



<5>
    

   5)「すぐに、下坂し、直に在所(延岡)へお供することを、掛け合うつもりです。
      前文の通り、かつ、また、いかなる変事が起きるか、予測ができない物情なので、ひとえに難しいことです。
      (兵士を)引き寄せようとすると、飛び出してしまう。足軽を居残りさせようという才蔵の提案を却下しました。
      御想像ください。

      伊賀の守様からの御達の写しを大殿様(先代の殿様)に御渡しください。
      正六日切 仕立てで、きつく申しつけて、今日から便を託します。右の段を御承知ください。

        恐惶謹言
                   9月29日 原小太郎
      長坂平左衛門殿



   以上のような手紙であった。この手紙からわかることは、

    @ 将軍家茂が他界して、将軍職が不在であることを知らないようだ。なぜ、将軍が出てこないと疑問に思っている。
    A 戦闘をやめるというのは、長州との強硬な主戦論者であった孝明天皇の心変わりとおもっていること。
    B 原小太郎達は、この戦は、大阪、江戸と続くであろうと覚悟をしていた。
    C 朝廷でどのようなことが評議されているかに大きな関心を寄せている。

    D 関白の考えが重要な要素であるとみているようだ。
    E 伊賀守から渡されたものは、解軍令であった。
    F 別の資料では井伊家は、同じように板倉伊賀守から同じ解軍令をえているが、それは、9月22日であった。
      板倉伊賀守は、諸家に一度に渡したのではなく、一藩ずつ呼び出して手渡した模様である。

   言葉:「正六日切」とは、飛脚に手紙を依頼する時、到着までの期日を決めて託すのである。
   この場合、6日で到着させよというのである。

【7】原小太郎について

   原小太郎は、当時は、準家老職の中老であったが、この戦では、士大将を勤めていた。
   彼は、鳥羽伏見の戦でも従軍しており、藩主の一番信頼していた人物である。
   勝海舟とも昵懇の仲になるなど、魅力ある人物であった。
   廃藩置県後、彼は、福沢諭吉を慕って、慶応大学に入り、その後、今でいう県会議員を勤め、終生、延岡の為に働いた人であった。

   西南の役の時、熊本の田原坂で負けた西郷軍は、延岡に入り、件の原の屋敷に設営した(その当時、原自身は、東京にいた)。
   そこで、薩摩兵士が剣舞を舞った時の刀傷が残っていると有名であったが、今は、その屋敷も解体されて、税務署(?)の敷地になっている。
   (解体後の柱等はどこかに保存されていると聞いている)。私は、小学校に入る前は、原邸の近くに住んでおり、
   同邸のそばの銭湯に通った思い出がある。原小太郎については、これからも、何度も扱うことになるだろう。

【8】資料

    (1) 内藤家資料: 1-11日記ー73―73=第二長征=御側役大阪滞留
    (2) 内藤家資料: 1-29維新-75=第2長征=陣羽織拝領
    (3) 内藤家資料: 2-10維新-34=大阪滞在日記
    (4) 内藤家資料: 1-7-154=万覚帳(慶応2年)



このページの先頭に戻る→ 

メインページへ戻る

 このレポートへの御意見をお聞かせ下さい。
    内容に反映させたいと思います。

    また、御了解を頂けたら、
     御意見のコーナーを作りたいと思います。

     どのレポートについての御意見なのか一筆の上、
   メールはこちらから御願いします。

  e-mail : ここをクリックして下さい
      




inserted by FC2 system