今回のトピックス |
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後備担当の延岡藩が藝州(広島)へ出軍することとなりました。 大阪から1か月程かけて広島に到着しています。なぜそれほどかかったのでしょうか。 到着して間もなく、突然、京都に呼び出された士大将は、停戦を告げられ、腑に落ちません。 その正直な気持ちを江戸屋敷への手紙に吐露しています。 当時の武士の気持ちを汲み取ることができます。 (2016.1.21) |
前回(第38話)では、慶応2年7月20日頃までを扱った。
幕府側による長州への4つの攻め口での攻防は、
それまでに、全て、幕府側の大敗の様相が明確に
なっていた。
前回示した年表を参考のために、
重複するがここで示しておく。
この時期の最大の事件は、
将軍家茂が7月20日に大阪で亡くなったことである
(薨御)。しかし、その喪は秘密にされ、公表されたのは、
一月後の8月20日であった。
家茂の喪については、その儀式も含めて、別の機会で
扱う予定なので、ここでは、延岡藩との関連を簡単に
述べるだけにとどめたい。
(1)状況
慶応元年(1865年)に第二次長征征伐をすると決めて、延岡藩を始め、夏に大阪入りをしたが、
その後、進展はなく、幕府軍は、大阪で1年を無為に過ごしてしまった。
朝廷からの長州攻撃の勅命が出て、いよいよ、慶応2年6月に、長州を5つの方面から攻撃することになったが、
その時点では、薩摩が長州側についていた(薩長連合)ため、実質は、4方面から長州を攻撃することになった。
兵士の数からは、幕府側が圧倒的に優勢であったが、幕府側は、1年の待機期間があったために
厭戦気分であり、第一次長州征伐の実績では、戦わずに長州が降伏したこともあり、今度も、
長州が降伏してくるという安易な気分があった。
加えて、長州側は、負ければ後が無いという必死さがあるという決戦への意識の差があった。
そして、特に、長州側が、最新型の銃(ミニエ銃)を大量に備えていたことが、
この戦いの最大の勝敗を決める要素となっていたのであった。
兵士の数でもなく、大砲でもなく、銃の数と質が勝因を決めた。
延岡藩も、大砲は、比較的新しいものも有していたが、銃は、火縄銃が主体の部隊であった。
この第二次長州征伐で、幕府軍の各藩は、自らの非力を痛感したのであった。
各藩は、この戦後、最新の銃の確保に走るのである。
前半の年表に示す様に、戦は、6月7日から各地で始まり、短期間で趨勢は決まって行った。
後備が任務の延岡藩の本隊にも、出動命令が下ったのは、七月終りであった。
実は、その時は、歴史からいえば、もう勝敗は決まっていた時期であったが、当人たちは、
まだ全体像が見えていなかったであろう。
延岡藩本体にも、藝州口(広島との境)への出陣が決まった(7月22日)。
そこで、延岡藩は、将軍に挨拶に向かった(7月27日)のであるが、その時は、将軍は既に、他界した後であった。
まだ、次将軍は決まっていないときであるが、延岡藩は、将軍から陣羽織を拝領している。
名誉なことだという記録である。右に示す様な記録が延岡藩内に残っている。
概訳は、
「慶応二年
殿様は、今日、御登城遊ばされまして、藝州表への(出張に伴い)御暇を仰せ出でられました。
その時、(将軍から)御陣羽織一つ 御拝領を遊ばされました。
御祝儀なことである。御帳(書き記す)
寅 7月27日」
陣羽織を頂くというのは、今までは、大変、名誉なことで有ったが、この戦では、もう無用の長物であり、
陣羽織を着た人物が長州側から銃で狙われたという記録がある。
ある藩では(延岡藩ではない)、殿様が家来に陣羽織を着せて、殿様が逃げたという記録がある。
<1> 1)「京師表に出役で、罷り在ります原小太郎から、向こうを、9月25日の丑刻(夜中の二時)に出した便が、 (江戸に)今日(10月2日)の辰の刻(朝八時)に着いた。諸向に其の便を伝えるようにという趣旨なので、 その様に、通達する予定である。 (手紙の内容) 一筆啓上致し候 殿様 ひとえに、御機嫌能く 御滞藝に成られています。 其の表(そちらの)上の様も、ひとえに、ご機嫌能く 成られてのことと存じます。 恐悦のことでございます。 ところで、拙者(私)は、本月(9月)12日に早駕籠にて、京師表に向けて 出役いたし、今、京師に居ります。」 |
<2> 2)「広島を発って、今月(9月)15日の朝4時に大阪に着きました。 16日の夜に乗船して、翌17日朝に京師に着きました。以下は、その時の様子(振合)です。 従軍しておりました諸家は、坂地(大阪の地)に御呼び寄に成られたので、身を軽くして、 お休みしたかったけれど、 藝地(藝州)よりは、坂地の方が、事情も良くわかるというのは、申すまでもないことだけれど、 一旦大事になった場合は、甚だ、迂闊なことにもなりかねず。如何すべきか。 かつ、今は、戌、癸亥以来の大変局にて、これからの形像は、 是より生まれる淵源(エンゲン=根源のこと)になるだろうと観察しておりますが、 仰せつけなので、上坂致しました。上様等が、御下坂なさらないので、 すぐに、(こちらが)上京致しましたところ、 京地の様子(図)は、甚だしく何も漏れて来ず、関白様(二条斉敬)、尹高様、御掛掌が当儀為されています。」 |
<3> 3)「当の儀は、如何なされるべきか、関白様が御参内なされないので、朝廷の大事件は御評議何ともできず、 上様、何時に御参内されるのか、見当もつかない状態です。 諸家は、御積り(気持ち)だけは、出ることができるけれど、京に参上する頃合いもわからないけれど、 加州(加賀藩)だけは、別の意味合いもある様子(色合)で、御発(出立)をなさっているが、 伺っても、当方には、一向にわからない状態です。 関東の1戦の前に、大阪での振合が、彷彿とされると見てとっています。 1朔日(9月23日)、板倉伊賀守様衆(家来)から、御留守居一人が出てきてほしいと伝言がありましたが、 留守居が居合わせなかったので、(代わりに)鈴木才蔵を差しむけた処、別紙の様な御達を渡されました。」 |
<4> 4)「公用人の田那村勤兵衛を以て、御渡しなられました。 その御内意に 恐悦至極 致しております。朝意(朝廷の考え)が転変いたしましたのも、時像にて、 下されました判断は、依って、如何すべきか。 藝州に戻るべきか、計り難きことでございます。 御家(延岡藩)は、数年来の物入りで、険しいことと思われます。 御預入れが出来ましたら、必ず、施す所存です。上下家臣は、同心で、戳力の意気込みです。 (朝廷の)御変慮によって、富強の御場合に対抗する振合は、御運があるかどうかの一点におります。 藝州表には、昨日午刻に、同行いたしておりました石川金三郎に御達を渡し、 家来を一人差添えて、早速 申し付けて、行かせました。(家老の)内蔵進殿も 一旦は、(殿様の)お供を致されることでしょう。拙者は、両三日、御京で見切りをつけて、」 |
<5> 5)「すぐに、下坂し、直に在所(延岡)へお供することを、掛け合うつもりです。 前文の通り、かつ、また、いかなる変事が起きるか、予測ができない物情なので、ひとえに難しいことです。 (兵士を)引き寄せようとすると、飛び出してしまう。足軽を居残りさせようという才蔵の提案を却下しました。 御想像ください。 伊賀の守様からの御達の写しを大殿様(先代の殿様)に御渡しください。 正六日切 仕立てで、きつく申しつけて、今日から便を託します。右の段を御承知ください。 恐惶謹言 9月29日 原小太郎 長坂平左衛門殿」 |
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