第38話:第二次長州征伐(11):いざ藝州口へ(前篇) 

No.38> 第二次長州征伐(11):州征伐にいざ藝州口へ 

   大阪に1年滞在して、やっと、長州征伐に藝州口へ向かいます。その時は、ほぼ趨勢は決まっていました。
    幕府から1年の滞阪と出陣の慰労のため3500両が下されました。
    本荘伯耆守が長州の人質を逃してしまいました。その状況報告が延岡藩にも届いています。


  
今回のトピックス


    長州へ宣戦布告をして長州での戦いが始まります。
    延岡藩も山口県と広島県の県境である藝州口へ向かいます。
    出張命令書もでます。幕府から、お待たせしましたということで3500両が延岡藩へ支給されました。

    幕府側は老中の本荘伯耆守が人質を逃がしてしまうという失態も見せました。
    そのような、藝州口へ向かう直前の大阪での雰囲気を紹介します。

                                   (2015.12.24)

                                           

【1】 長州征伐時の慶応2年の年表

これまでの経緯>

1)8.18クーデター(文久3年=1863年=8月18日)

  朝廷内の攘夷強硬論者の長州系公家の一斉追放という形で
  朝廷内でクーデータが起きた
  (文久3年=1863年=8月13日)。8.18の政変である。

2)池田屋事件(元治元年=1865年=6月5日)

  京都から長州勢は一掃されたはずだが、勤王攘夷の
  志士は残っていた時に、新選組が長州藩とほかの藩
  の志士たちが集合していた池田屋を急襲した事件がいわゆる
  「池田屋事件」が起きた(元治元年=1865年=6月5日)。

3)蛤御門の変(元治元年=1865年=7月19日)

  憤慨する長州藩過激集団が武力を背景に朝廷に詰めか
  けようとした所、蛤御門で会津、薩摩の軍隊に阻止され
  追い返される事件が起きた。

  (蛤御門の変=禁門の変:元治元年7月19日)。
  朝廷に対し砲を向けたことから、長州藩は朝敵
  なってしまった。

4)第1次長州征伐(元治元年=1865年)

  幕府は、8月4日に長州征討令をだし、将軍親征をちらつかせ、前尾張藩主徳川慶勝が総督として出軍することになった。
  実際は、10月4日、慶勝に黒印状が交付され、軍事全権委任状となった。長州は、戦わずして首謀の3家老他を自刃させ恭順の意を示した(11月12日)。
  同年12月末に第一次長州征伐は一応は終了した。この時、幕府は、幕府の国力を過信し、将軍が親征すると脅せば長州藩も降参すると高をくくることになった。
  1次長州征伐後、幕府は、長州藩に対し、更に種々の要求を続けたが、長州藩は無視し続けた。

5)第2次長州征伐(慶応1年〜2年=1865〜1866年)

  幕府は、第二次長州征伐を決し、慶応元年(1865年)夏に、諸藩とともに、将軍家茂は、大阪に到着したが、
  朝廷から長州征伐の勅許がでず、結果、ちょうど1年を、大阪で、無為に過ごすこととなった。
  兵士の厭戦気分は増し、大阪の物価は上昇し、打ちこわし騒動が起きるまでにも不穏な雰囲気になってきた。
  そして、ついに、長征の勅許がでて、慶応2年(1866年)6月7日、宣戦布告をすることになった。

【2】第二次長州攻撃の布陣

朝廷から長州征伐の勅許がでて、幕府は長州に対し宣戦布告をしたのは、
慶応2年6月7日の事だった。第2次長州征伐のことを、長州側から見ると四境戦争
というが、幕府側からは5境戦争のはずだった。

幕府の大軍は、右第一図に示す様に、長州を五方向から攻撃するように配置をしていた。
五つの攻撃口に対して、配置された藩は以下の通りであった。

@ 藝州口討手:

 (1番手)=広島藩浅野安藝守、彦根藩井伊掃部頭、与板藩井伊兵衛大輔(兵部少輔)、
      高田藩榊原式部大輔、
 (2番手)=津山藩松平三河守、明石藩松平兵部

A 石州口討手:

 (1番手)=福山藩阿部主計、
 (2番手)=浜田藩松平右近将監、津和野藩亀井隠岐守
 (応援)=鳥取藩池田相模守、松江藩松平出雲守

B 周防大島口討手:

 (1番手)=松山藩松平隠岐守、宇和島藩伊達遠江守
 (2番手)=徳島藩蜂須賀阿波守、
 (応援)=中津藩奥平大膳太夫、今治藩松平壱岐守

C 小倉口討手:

 (1番手)=肥後藩細川越中守、柳川藩立花飛騨守、小倉藩小笠原左京太夫、千束(小倉新田)藩小笠原近江守、播州安志藩小笠原幸松丸、
 (2番手)=福岡藩黒田美濃守、佐賀藩鍋島肥前守、岡藩中川修理太夫、島原藩松平主殿守

D 萩口討手:

 (一番手)=薩摩藩島津修理太夫

この中で、赤字で書かれた藩主名は、実際は、幕府の長州征伐に合理性が無いとして、参加しなかった藩である。
萩口を海軍力で攻撃を任された薩摩藩が、ひそかに結んだ薩長連合のため、攻撃を辞退し、現実的に、萩口攻撃はされなかったので
結局、四境戦争となったのである。

【3】 四境それぞれの口での戦

(1) 大島口の戦い

  最初に戦いが始まった場所である。
  ここには、幕府側から、松山藩、宇和島藩、徳島藩、今治藩が参戦するはずだったが、実際に、兵を出したのは松山藩のみで、
  幕府歩兵隊と軍艦で大島口に奇襲をしかけた。

  長州は農民兵およそ500人で防衛していたが、2000を超える幕府軍に対抗できずに劣勢に立たされた。
  高杉晋作と第二奇兵隊が加わり、幕府軍と一進一退の攻防を展開し、最終的には大島口から幕府軍を撤退させた。
  幕府側が、一時的にせよ、勝利した唯一の戦場である。

(2) 芸州口の戦い

  長州藩は岩国領の吉川経幹を総督とする岩国兵と遊撃隊、御楯隊、干城隊などの諸隊1000人で防備にあたった。
  幕府軍は彦根藩、紀州藩、高田藩、幕府陸軍で構成された5万人といわれた。
  先鋒の彦根藩が、国境の小瀬川を渡河する際に、高所から長州側が一斉射撃したため、彦根藩の陣容はたちまち総崩れになり、一目散に退散した。
  彦根藩が敗退したことの衝撃は大きかった。

(3) 石州口の戦い

  1000人を率いた長州藩の大村益次郎は、専守防衛をせずに、いきなり、国境を侵犯し、浜田をめがけて先制攻撃に出た。
  途中の津和野藩は、無抵抗で長州藩の通過を許した。6月17日、浜田藩領の石見益田に攻め入った。
  高所からのミニエ―銃での攻撃で福山藩は敗走した。

  刀、槍で死亡した兵士は皆無で、全員、銃の標的になったものばかりであったと記録がある。
  ミニエ―銃に対する恐怖が一気に幕府軍側に広まった。

  浜田藩は二番手であったが、否応なく前面に立たざるを得なくなった。
  6月25日には、二番手の鳥取藩池田家、松江藩松平家も参戦が命じられた。
  しかし、幕府軍は総督も含めて逃げ出し、その中には、浜田藩主も含まれていた。
  残された浜田藩士は浜田城を自焼して、この戦は終了した(7月18日)

(4) 小倉口の戦い

  幕府側は、小倉城を拠点として、小倉藩、熊本藩、久留米藩、柳川藩など九州勢20,000人の兵力が集結していた。

  一度下関に戻った長州藩は再び渡海して小倉口の拠点大里を攻撃した。
  小倉藩も抵抗したが、最終的に、長州軍の勢いに押され敗走した。

  長州軍は、下関に戻った後、7月27日、三度目の渡海をして小倉に攻め込んだ。
  小倉城に通じる要所の赤坂口と大谷口には熊本藩が待ち構えていた。
  これまで2回の戦いでは日和見をしていた熊本藩だったが、今回は万全の態勢で長州を迎え撃った。
  しかし、将軍家茂の逝去の報が入り、小倉口総督の 老中 小笠原長行は密かに軍艦に乗船して戦線を離脱した。

  残された諸藩兵も自分の国に帰国したため、自分たちだけでは守りきれないと考えた小倉藩は城に火をかけ山間部に撤退した(8月1日)。

【4】延岡藩に残る資料から

延岡藩は、後備を仰せつかっていたので、他藩が出陣しても、大阪に残っていたが、
幕府側の戦績が芳しくないことから、6月28日、ついに、最後の砦の後備の部隊にも出陣命令が出た。

(1) 6月28日の日誌より:幕府からの出陣命令

その日の夕方に、老中の板倉伊賀守様よりの書状が届いた。それには、以下の内容が書いてあった。

 「 内藤備後守、

   藝州に討ち手、仰せつけられ候間、応援の心得を以て、急速の出張を致し候。
   松平三河守(津山藩主 松平斉民)、井伊掃部頭付属の井伊兵部少輔(与板藩主 井伊直朗)、

   松平兵部大輔(明石藩主 松平慶憲)、松平備前守(岡山藩主 池田茂政)、榊原式部大輔(高田藩主 榊原政敬)、
   脇坂淡路守(播州龍野藩主 脇坂安斐)に 申し合わせられるべき候。

   尤も、軍目付の為に、井上猪三郎、差遣り候。且つ又、松平丹波守(松本藩 戸田光則)、牧野豊前守(田辺藩主 牧野誠成)も、
   この度、同様に、(軍目付が)仰せつけら候間、其の意を得て 申し合わせられるべき候」


延岡藩には、幕府から軍目付の井上猪三郎があてがわれている。松平丹波守、牧野豊前守にもそれぞれ軍目付がつけられた。

(2)6月29日=3500両を拝領した

   「昨日の場有の通り、今朝、5時お供揃いにて(大阪城に)御登城遊ばされたところ、
    御白書院縁頬替席において、大御目付の 滝川播磨守様、老中板倉伊賀守様
    から御書き付けを、御渡し頂いた。」


  「御達表 内藤備後守へ

    内藤備後守
    昨年以来、永々の滞阪で、その上、この度の戦地への 出張の件を、合わせて、
    思し召し成されたところから、出格の訳を以て、金3500両(現在の3億5000万円ほど) を下される」


ここで、白書院とは、黒書院と並んで、将軍が大名等と謁見するなど重要な儀式を行う部屋である。
その部屋の縁側(縁頬=えんがわ)のそのさらに替席が、有ったのであろう。白書院の隅っこでという意味であろう。

この情報は、江戸にも早々に送っている(7月14日着)。

面白いことに、この情報を、延岡藩主は、大分県ながら、延岡藩の隣になる
佐伯藩主毛利高謙(長州藩の親戚)に私信を送っており、
その手紙は、同年の7月26日に到着している。その手紙が佐伯市図書館に残っていたので、それを現代語訳して紹介する。

    「御進発の御後備に付き、御上坂したところ、去月(6月)28日に、御同所、板倉伊賀守様の御家来之者が御呼出に来て、
    芸州□の御討手(の件)を聞きました。応援の御心得をもって、急速に御出張なされるように言われました。

    且つ又、よって、御達の同29日に御登城致しましたところ、昨年以来、永々の御滞在、其上、戦地への御出発も御大儀に思っておられ、
    よって、御出格の訳をもって、金三千五百両を御拝領いたしました。その点をお知らせいたします」


という手紙を出している。

この時期、徳川幕府の台所は火の車であった。
幕府の出費は、慶応元年5月から慶応2年5月までの1年で、武器購入などの戦費を除いて、純粋に大阪に滞在したことでの出費は、
315万7446両になり、更に、慶応2年6月から12月の間に、129万9650両の追加支出をして、合計 445万7096両を出費している。

資金の枯渇する幕府は、財源を求めて、慶応2年4月中に大阪の富商人に、252万5000両の献納を命じている。

今回の延岡藩に下された金も、この献納からのものと思われる。

(3)出張命令書

第一陣(近藤速水ほか)は、7月5日に船で出陣しているが、本隊(原小太郎ほか)は、7月20日に船で出立している。
正式の出陣には、きちんと出張命令がでる。


例として、士大将の原小太郎への出張(でばり)命令書を示す。

    「原小太郎組1隊 引き纏(まと)めて、来る20日 乗船。藝州表に出張致し候。
    此の数をよく心得て、御中軍の面々、また、定役に通達を致されるべき事」

【4】老中伯耆守が人質を逃がしてしまう

背景>第一次長州征伐後、長州藩への処罰として、藩主を江戸へ呼ぶとか、蟄居とか、10万石召し上げなどを検討したが、
長州藩が応じないので、長州藩家老の宍戸備後助と小田原素太郎を人質として、広島に拘禁した(5月9日)。
(この付近の詳しい資料が延岡藩にも残っているがそれは今回は省く)。

戦端が開いた直後の、6月25日に、老中の本荘伯耆守宗秀(丹後宮津藩主)が、
独断で、長州藩と交渉するために人質2人を解放してしまった。しかし、交渉は門前払いに終わった。

大チョンボをした伯耆守は、大阪へ呼び出されたが、7月5日に、板倉伊賀守と稲葉美濃守に弁明書を送っている。
糾弾があった後、7月25日に老中を罷免されている。

この件に関して、延岡藩の資料にも以下の様なものがある。
延岡藩の日誌によると、7月11日に、延岡藩が板倉伊賀守から呼び出され、以下の書状を受け取った。
少し、現代語にして訳を示す。

   「毛利奥丸家来、宍戸備後介、小田村素太郎儀、
   御不審の筋これあり。

   松平安藝守に御預け相成り居りましたところ、この度、
   安藝広島表において、伯耆守、全く一己(1個人)の
   差略を以て、竊(=窃=ひそか)に帰国をさせたことは、
   心外の儀につき、

   伯耆守は、早々、大阪表に御呼登し、ご糾問の上、
   至当の相聞き置き これ有るべき積りにつき、
   聊(いささ)かも疑念無く、諸事、これまでの通り、
   心得られるべきこと。

   右の御書き付けを、今朝、板倉伊賀守様に、御留守居が、御呼出しをされ(頂いてきた)。」

【5】資料

   1) 内藤家資料=2−10維新―34=大阪滞在日記=慶応2年6月1日〜8月1日
   2) 内藤家資料=1―11日記―127=大目付所滞陣中=慶応2年4月5日〜6月29日
   3) 内藤家資料=1―11日記―73−13=御側役大阪御滞留=慶応2年7月1日〜28日
   4) 内藤計資料=3―20維新―250=原小太郎組1隊藝州出張=慶応2年7月20日




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