第二次長州征伐(10):出陣前の1年間の大阪滞在と大阪屋敷 

No.37> 第二次長州征伐(10):出陣前の1年間の大阪滞在と大阪屋敷:長州との交渉の文書紹介 

   大坂に到着後も、長州征伐の勅許が出ません。1年間を大阪ですごしています。
   その間の長州藩と幕府の交渉の文書が延岡藩に残っています。
   長州藩のしたたかな交渉術が見えてきます。


今回のトピックス


    大阪着後も出陣までに1年間を費やします。
    その大阪での滞在中も、幕府から次々に状況の進展を告げる触れが届きます。
    その触れを紹介します。

    また、延岡藩大阪屋敷の場所を紹介します。

                                (2015.11.24)

                                           

【1】大阪滞在中の1年間

第二次の長州征伐として、殿様の政挙(当時13才)が率いる延岡藩は、
慶応元年閏5月6日に江戸を発ち、通常の3倍の42日もかけて、 大阪の蔵屋敷に入ったのは、慶応元年6月28日(太陽暦8月19日)であった。

将軍家茂の率いる軍は、ひと月前に大阪に入っている。
しかしながら、すぐに長州征伐へ出軍とはならなかった。
朝廷からの出軍許可(勅許)が出されなかったのである。

何十万人という諸藩の武士や付添が大阪に集まり、1年を無為に過ごしているので、 米の価格があがり、町民の不満もたまってくる。

丁度その頃、英、仏、蘭、米の連合国が兵庫港(神戸)の開港を迫ってきて、 幕府側は、老中(小笠原長行)の独断的(朝廷の許可=勅許を得ず)な判断で許可を出してしまい、 この時期の問題の種を大きくする要因になった。

それも慶応元年9月に片付き、その直前に、長州征伐の勅許を取り付けていよいよ長州攻撃の準備が整った。
この時期、幕府側は、ほとんど、一ツ橋慶喜がしきっており、将軍家茂(当時19才)が、将軍を辞退し江戸へ帰ると駄々をこねる事件も起きたが、
それも何とか翻意させることはできた。しかし、将軍の権威はさらに下がることになる。

しかし、慶応2年になると、幕府側の知らない中で、薩長の同盟が結ばれた(慶応2年1月22日)。
薩摩が反幕府の姿勢を明確にしていく。

3月末(4月初め)に、幕府が、長州処分案を決めた。

@石高10万石取り上げ、A藩主敬親(大膳)は蟄居隠居、Bその息子元徳(長門守)は永蟄居というものだった。

これを申し渡すため、老中の小笠原長行が広島(藝州)に赴き。長府、清末、徳山、岩国の四支藩の藩主と家老を同地に招致する。
そこでは、長州藩家老の宍戸備後助がのらりくらりと応対して、支藩主も家老も病気として出てこない(慶応2年2月22日)。
さらに3月22日に、藩主大膳と長門守の親子とその子(惣領の)興丸(オキマル)、四支藩主、その家老に四月21日までに広島に出頭せよという命令書を送った。

さらに、毛利父子が病気なら代理人でもいいよという妥協案を提示している。それでも、長州藩は応じないのである。
これらのいきさつは都度、延岡藩にも(もちろんその他の幕府側の藩にも)、この様な連絡をしたという報告が入っている。

延岡藩の記録に残っている幕府からの色々な触れの記録の中で、幕府が長州藩に送った(4月)文書(の写し)のいくつかが、
延岡藩の慶応2年4月8日の記録に残っているので、示す。

  
 

ここには、2つの文書が入っている。これらの概訳を示す。

<1>

   四月八日 晴:
      毛利大膳父子へ
   御栽許の儀に付き、同人 未だ承ず。 

   毛利左京(元周=長府藩主:5万石)、毛利淡路(元純=清末藩主:1万石)、毛利讃岐(元純=清末藩主:1万石)、並びに、
   吉川監物(岩国藩主:3万石)、大膳の両家老の宍戸備後助、毛利筑前らは、芸州の広島表に 罷り出る様に 先達で、連絡したが、
   未だ、藝州への出頭がない。

   模様もわからないので、付いては、猶も又、今般も 別紙の通り、松平安藝守(浅野 斉粛(ナリタカ)安芸守=広島藩主)は、
   右の様に、連絡するものであるので、この段 心得て (殿様に)伝える事。
     四月

<2>

   別紙  
      毛利大膳 家老
          宍戸備後助へ
   毛利大膳、毛利長門 並びに、長門の惣領の興丸(敬親の孫)に、連絡いたしたので
   来たる21日までに、広島表に、罷り出てくること。

   もし、病気がある時は、(本人たちの)出頭なしでよいから、末家並びに一門の内、名代として、
   (誰かを)差出すべき。右の段、早く罷り帰り、大膳を始めに 連絡する様に。
     四月

  
 

ここには、3つの文書が入っている。

<3>

       毛利左京(長府藩主=元周:5万石)
       毛利淡路(徳山藩主=元蕃:3万石)
       毛利讃岐(清末藩主=元純:1万石)
       吉川監物(岩国藩主=吉川経幹:3万石) 達へ 

   本家大膳父子、並びに、長門の惣領(長男)に申し渡した内容を、先達て、その方に、伝えた件であるが、
   広島表に罷り出られるべき旨を伝えた。たとえ、(藩主達が)病気であっても、無理してでも、来る21日までに藝州に出てくるように。
   尤も、無理してでも、罷り出るのが難しい場合は、家臣の内、一人を差出すように。
     四月

<4>

      毛利大膳家老
           宍戸備前(備後助)
           毛利筑前
   右の者どもに、連絡した様に、広島表に罷り出るべき旨を、先達にて、連絡したところ、もし、病気であっても、無理してでも、
   來たる21日までに、罷り出る様に、申し付けられたであろう。

<5>幕府側の面々への通達

    討ち手の面々に連絡する
   口頭で連絡(口達)したことの記録(覚え)

   前紙で知らせた通り、期限に至り、第一、(長州藩は)名代などを、差し出さずにいる。
   御栽許の違背により その罪は、重大であるので、速に、御討ち入りを成られるべき旨
   兼ねて、その心得にて、指図を待っているべきであること。

   右の趣、お供の万石以上、以下の面々に、心得ておくように、事前に連絡をするものである。
   右の段を了解しておくこと。

   公儀の御触れがあるので、それまで、待っているように。お供の面々、並びに、定役にも申し伝えるべきである。
   尤も、支配がある面々(家来を持っている連中)は、その支配方にも、申し渡しをしておくように。
     四月


幕府は、「長州藩主が病気と称して、代理人をさし出してもよい」というかなりの妥協案を提示したが、
長州藩は、これも無視して、結果、6月7日の幕府側の宣戦布告につながったのである。

延岡藩を含めた諸般の武士や人足などが、大阪到着後、1年間を無為に大阪で過ごしたことになる。
何十万という人間が大阪に集まったので、コメ不足と物価高が襲い、その不満から大阪や江戸で打ちこわし騒動も起きている。
また、長州藩の奇兵隊の一部が幕府側に攻撃を仕掛けるという事件も起きている。

このような事態は、都度、各藩に報告(触れ)が回ってきており、延岡藩の記録にも残されており、戦時体制の緊張感は伝わってくる。
今回は、その中で、代表的な記録を示した。慶応2年6月2日に延岡藩も藝州口の戦場に向けて、大阪を発っているが、それは次回以降に報告する。

長州藩とは、長門国と周防国の2国を支配していた国主であったが、城を置いていたのが萩(長門国)だったので、長州藩と呼ばれた。
幕末当時の藩主は、毛利敬親(大膳=斉公:1819〜1871)であり、世子が元徳(長門守)、そして、その子が興丸(オキマル)である。

長府藩(5万石:藩主=毛利元周=左京)、徳山藩(3万石:藩主=毛利元蕃=淡路守)、清末藩(1万石=毛利元純=讃岐守)。
この他に大名格ながら、別扱いの 岩国藩(3万石=吉川経幹=監物)があった。これら四藩と呼んでいた。岩国藩は、維新後に藩格に上がった。

【2】 延岡藩の大阪蔵屋敷とは

藩主は、1年間を大阪蔵屋敷で過ごし、時々、大阪城に挨拶に行く生活を送っているが、延岡藩の蔵屋敷はどこにあったのか。
堂島新地5丁目(現在の福島区福島1丁目)にあった。当時は、南を堂島川、北側を蜆川に挟まれた土地である。
文化3年(1806)に刊行された「増脩改正攝州大阪地圖」(国立国会図書館デジタルコレクション)に見ることができる。
まず、広い範囲を見ると、(赤い枠が延岡藩の大阪屋敷の位置)

  
   

大阪は、掘と川が縦横無尽に走っており、当時、八百八橋の町と言われたのが分かる。
その中の堂島川河畔の田蓑橋北詰から玉江橋北詰にかけての北側に、延岡藩の蔵屋敷がある。
周りも各藩の蔵屋敷がつながっており、延岡藩の近くでは、東から(右から)順に、長岡藩、上田藩、秋田藩、壬生藩、延岡藩、中津藩の6つの蔵屋敷が続いている。
さらに拡大したものが右側の図である。

これを現代の地図上に示すと、

  
   


大阪駅(梅田駅)の南側、直線距離で800m程の場所であるが、当時の掘割はほとんど埋められており、昔の面影はない。
延岡藩大阪屋敷があった場所は、現在の堂島フォーラムの建っている場所付近である。
地図から敷地を予想すると、東西55m×南北175mほどの敷地であったとわかる。

延岡藩の西隣は、中津藩の大阪屋敷があったが、福沢諭吉はこの屋敷内で生まれている。
延岡藩の最後の殿様である政挙や家老、そして、延岡藩の藩校の卒業生の多くが、慶応大学に進んでいるのは、
大阪での隣通しのヨシミがあったのかもしれない。

(2)延岡藩の大阪屋敷

最後の延岡藩主政挙の先先代の藩主の未亡人(井伊直弼の姉)である充真院は、文久3年(=1863年)に、
参勤交代廃止により、初めて、延岡に帰る(行く?)運命になり、その道中日記「五十三次ねむりの合の手」を書いているが、 その中に、延岡藩の大阪屋敷に付いての詳しい記述がある。右に彼女が書いた図面を示す。

玄関は役所(図には描かれていない)の側にあり、小さい部屋が四間、広い座敷が一間、風呂場と厠らしい部屋がある。 広い座敷は庭に面しており、庭の両側には石灯籠が多数設置されていたようだ(絵には無い)。
この敷地内に、江戸屋敷より立派な屋敷神を祀る御宮が設けられていることを記述している。

いまだ、稲荷様・生目様・八天狗様へ参り申さず、別段に参詣したいと思えども、間合がなく、
なかなか行けず、夕暮れになって、只々、御宮廻りの様子を見たくて行きました

とある。図中左下に、
先ず、かようにあらまし見ゆ
と記述有り。その印象は、

江戸の屋敷の神々様も、是程には及びもつきませんが、江戸のも少しは良いと思いたいと思いました
とある。また、この地の延岡藩の御宮は、大阪の各藩の中でも一番すばらしいと自画自賛している。

屋敷にある稲荷様・生目様・八天句(狗)様は、(皆一緒に)、御同社にて有ります
とあり、稲荷とおんめ様(産女霊神)と八天狗を一つの御堂に一緒に祀っていたのである。

配置図によると、御宮の入り口・拝殿の向い・出口にそれぞれ一つずつ、都合三つの鳥居があり、
御手水の井戸とその前には石製の手水鉢が設置してある。

"拝殿"は階段を二段上がった所にあり、拝殿の斜め向いに"額堂"が別棟として建ててあった。
額堂に奉納されている額も、実に立派であったようだ。
充真院が配置図に省略して描かなかったが、多数の"石灯籠"があった。

立派な内藤家の御宮は、内藤家および家中に加えて、近隣の人々の信仰の場にもなっていた。
しかも、昼夜を問わず頻繁に参拝者が到来していた。その様子は

朝夕夜までも参詣の人の参る様子が、聞え申し候
と、図中右に記述しているように、朝から晩まで参拝者の気配が聞こえたのであろう。

朝には、特にワニグチの音(財布の開ける音)がうるさかったとある。
屋敷内の御宮は近隣の人々から信仰を寄せられ、親しまれていたのである。

【3】 資料

   1) 内藤家資料:1-11日記―127=大目付滞陣中(慶応2年)
   2) 充真院「五十三次ねむりの合の手」(文久3年=1863年)
   3) 「増脩改正攝州大阪地圖」(国立国会図書館デジタルコレクション=文化3年(1806))



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