第二次長州征伐(9):延岡藩の第2次長征の進軍と川渡の難儀:「川支え」と旅費枯渇に悩まされます 

No.36> 第二次長州征伐(9):延岡藩の第2次長征の進軍と川渡の難儀:「川支え」と旅費枯渇 

 渡川に絡む「川支え」、「留め川」、「明き川」そして、旅金の枯渇が主題です。 延岡藩の膨大な資料の中から、東海道の進軍の困難な事態をイキイキと伝えます。

今回のトピックス


    慶応元年(1865年)閏5月4日(太陽暦1865年6月28日)に江戸を発った延岡軍は、大雨洪水に悩まされ、
    川を渡れず、その都度、逗留して、大阪には、42日もかかって6月28日(同1865年8月19日)に着きました。

    渡川に関係した話や、他の領地を通過する際の儀礼を紹介します。

    そして、延岡藩は、途中で旅費が不安になり、緊急で江戸から送金させています。
    豊富な資料をもとに、その当時の苦しみを報告する。

                                    (2015.10.26)
                                               

【1】 序:渡川のむずかしさ

  今回は、延岡藩の第二次長征のため江戸から大阪までの進軍中の詳しい日記をもとに報告したい。

その進軍は、延岡藩だけにとどまらず、各藩とも苦労の連続であったことが今回の資料で明らかになる。

それは、進軍が真夏に行われていることから、大雨(台風かもしれない)による洪水とそれに伴う各川での渡し待ちに伴う長期逗留が必然となり、
しかも、各藩が東海道を同時に移動するので、渋滞が後列まで及んでしまい、結果、長期の移動となり、
延岡藩は、(多分、他藩も同様であったろう)、かなりの出費に苦しめられている。

今回は、江戸時代の旅行における渡川がいかに難しかったかを中心に延岡藩の苦闘を紹介する。
今回のキーワードは、「大雨」と「渡川」である。

それと、大軍が行進する際、其の地域の統治者からの儀礼とそれに対する返礼なども、昔の街道の風習を知る上で面白い。

     
 
 酒匂川 (初代:歌川広重)  酒匂川 (2代目:歌川広重)


上第1図の浮世絵は、歌川広重 の「五十三次」の中の「小田原・酒匂川」(嘉永年間(1848ー53))である。
この酒匂川は、今回の報告でも出てくる川で、当時、頻繁に氾濫を繰り返し、橋もかかっていなかったので、
東海道を行く旅人には悩ましい川の一つであった。

第2図は、2代目歌川広重の作による同じ酒匂川の渡しの様子である。画質はともかく、侍の渡しの様子がわかりやすいので合わせて紹介する。

【2】公方隊 

公方様(将軍家茂=19才)の隊は、慶応元年5月16日に千代田城を出て、閏5月22日に京都についている。35日もかかっていることになる。
通常の参勤交代でも最短10日ほどで到着するのが可能な行程である。

また将軍ということで、蒸気船で海路を進んだら大阪までは、数日以内で到着できるであろうが、陸路を使ってるのは、
長州藩と外国船からの海上での脅威があったためと思われる。

京都に到着した将軍は、その日すぐに参内し、長州藩征伐の勅語を求めたが、結局、
朝廷からの指示は、しばらくは大阪に滞在し、衆議一致するまで猶予せよというものであった。

また、翌23日には二条城で、将軍、幕閣、一橋慶喜、会津藩、桑名藩とで、長州藩の征伐後の処置の検討会を行っている。
藩主死罪、領国を半分に削るなどが議論されたが、結論は出なかった。その後、将軍は大阪に向かい、途中、枚方からは、船で大阪に向かっている。

このことは、後続隊にもすぐに知らされ、(将軍も船に乗ったから)伏見からはに乗って大阪に向かってよいという指示が出ている。
将軍家茂は、結局、閏5月25日大阪城に入っている。

【3】延岡隊の場合

若い殿様(13歳)をトップとする延岡藩部隊は、将軍護衛の後備隊として、
将軍の出発から半月ほど遅れた慶応元年閏5月6日(太陽暦では、1865年6月28日に相当)に出発している。

この出発時期が後々の苦労の種につながったのだが、出発時はそういうことも想定せず、
若い殿様の初陣ということで、士官級の武士は、全員、陣羽織を着用して、麗々しく、また、盛大に見送られて江戸藩邸(虎の門)を出発した。
この部隊が、大阪屋敷に着いたのは、6月28日であった。実に、42日もかかっている。

その後の戦が無残な結果になることを暗示しているかのような大阪への旅となる。

右の第一表は、延岡藩の行程を示したものである。ここで、距離を(現在の4kmに相当)で示しているのは、実に便利な単位だからである。
1里つまり4kmを歩くのに、現代人も江戸人も現在の時間で、1時間ほどである。
つまり、例えば、4里を行進するというと、約4時間の距離だなと直感的にわかりやすいので、ここでは、採用している。

延岡藩を始め、行路と宿泊する駅は事前に幕府から示されていた。
延岡藩の最初の宿泊予定地は、川崎であった。途中、品川の駅で休息を取っている。
そこには、大殿様(先代の殿様)も見送りに来ていた。ところが、延岡藩は品川より先に進めなくなった。

その理由は、延岡藩と同じ日に出発した藩は、他に2藩ある(松前家と松本家)。
延岡藩だけでも1000名近い部隊である(大阪に終結した延岡藩部隊は、2000名であるが、
半分ほどが、江戸からの部隊と思われ、残りは延岡藩からの参加者と思われる)。
そのように、大部隊が延岡藩の前につながっている。

そして、この季節を思い出してほしい。梅雨から夏の台風シーズンの真最中なのである。
いたるところで川が増水しており、他藩も川を渡れず、それが、行進の渋滞となっている。

このような状況を、当時の言葉で、「川支え(かわづかえ)」という。
増水して渡川ができなくなると、閉鎖に相当する、「留川」(川留めともいう)となる。
そして、水位が下がると、「明川」(川明けともいう)と言って、開通する。

延岡藩の最初の逗留地となった品川駅(宿場町の事)は、延岡藩の虎の門にある藩邸から2里ほどの距離(徒歩2時間ほどの行程)である。
実に、そこに、6泊したのである。そして、次の宿泊地である川崎駅5泊もしている。
小田原を超えるのに、26日も要している。小田原まで、20里であるから、20時間歩き続ければ、到達可能な距離なのにである。

【4】箱根と大井川を超えた

また、小田原からは、箱根峠で泊まらず、向こう側のふもとにあたる三島まで、箱根八里を一気に進んでいる。
箱根駅伝で有名なあの急坂を超えたのである。
古くから「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と言われるほど、大井川の渡川は難関であった。
比較される箱根の山越えも大変なはずである。
その二つの関門を越えて、掛川の宿に着いたところで(慶応元年6月14日)、大きな関門を越えた安堵から、江戸藩邸へ実情報告をしている。

自軍の小荷駄方(輸送担当)にその手紙を、明日(6月15日)朝6時に掛川を出発して、3日の締め切り厳守で届けるように命じている。
自分たちは、ここまで、28日もかかっているのに、配達係へのなかなかの無理難題である。やはり、難しかったのであろう江戸屋敷に着いたのは、
残念ながら,10日後6月24日であった。

江戸藩邸では、この知らせを、御隠殿(先祖を祀ったところと思われる)に御報告している。
その上で、充真院様、御姫様(殿様の将来の奥様)にご報告をしている。以下の手紙は、その江戸藩邸向けて6月14日に掛川で書かれたものである。

     
 

概訳を示す。

 「一筆啓上致し候。先以(まずもって) 其地の御屋敷は、御別条なく、御座。
  上々様方に置かれましては、ご機嫌好く成られ、御座 奉り、恐悦に存じます。
  然らば、(私どもは)、去る、朔日(6月1日)に小田原宿より、手紙を出しましたように、同駅に、ご逗留 成られ候ところ、
  御先々の隊が、御繰り越しの渋滞の様は、いまだ、よくわからないのですが、

  (私どもは)とにかく、三島駅まで、御繰り越しで行くつもりで、先の手紙に書きましたように、
  (計画通り)、翌6月2日に 小田原駅を御出立され、箱根山を滞りなく、御越えなされ、三島お宿に御着座遊ばされましたところ、

  御先々の隊が、御繰り越しが、できませんので、同五日まで、同駅に、ご逗留したしましたところ、
  御先々の隊が、御繰り越しができました旨の御達がありましたので、6日同駅を御出立しました。

  それより、かねて、(幕府から支持された)御道順の通り、ご旅行しました。
  去る9日、府中(静岡)の御宿に御着座遊ばされましたところ、
  安倍川留め川に成りましたので、同駅に、ご逗留成されることになりました。
  明川になりましたので、同11日、府中駅を御出立なさいました。

  藤枝の御宿に御着座に遊ばされましたところ、(今度は)、大井川が、留め川になりましたので、
  又又、同駅に13日までご逗留に成られました。
  そこで、明川になりましたので、今日14日、藤枝駅を出立して、大井川を滞ることなく、御越え遊ばされ、
  掛川の御宿に御着座遊ばされました。

  (殿様に)置かれましては、ご機嫌好く成られました。
  又、お供の面々、内蔵進殿をはじめ、拙者共、急事も無く、御供をしております。
  右の趣意を 御年寄衆にもお伝えください。
  また、上々様方には お触れを達せられる様お願いします。

    恐惶謹言

【5】もう一つの災難

当初の予定では、名古屋までは、東海道を進むが、名古屋以降は、美濃街道を通って、北へ向かい大垣へ出て、
中山道を大津、京都に向かう予定であったが、天竜川沿いが通不能ということで、急遽、伊勢路の方へ道を変える様に指示がでている

現在の資料で、調べてみると、慶応元年6月17日〜18日(太陽暦では、1865年8月8日〜9日)に、
天竜川で150年に一度といわれる大洪水(”乙丑年の満水”という)が起きていることが分かった。大氾濫が起きて、通行不能となったことが予想できる。

【6】ご当地の為政者からの先払い者派遣

各地を通過する際、その地を治める側から、御先払いという人が出される。

例えば、掛川を通過時には、

  「太田総次郎様より、同心小頭同心の計2人が差し出されている。
   延岡藩は、御礼として、同心小頭に金 1朱(約2万円)、同心に二百文を授けている。
   かつ、延岡藩の御留守居役が御礼の挨拶をしている。

【7】旅費の緊急追加依頼

予想外の長旅になって、当然ながら、旅費の不安が起きてくる。
延岡藩も、小田原に滞在している、閏5月29日に江戸の藩邸に旅費の緊急追加の依頼をしている。
気の毒なほどに苦しい懐事情を訴えている。

殿様と一緒ながら、これほどの窮地を訴える必要があるのかと思うほどで、旅費の追加分として、2000両(現在価格で約2億円)を送ってくれるように、
延岡藩部隊の池内善蔵曽根富弥が江戸藩邸に訴えている。

連絡係に対し、小田原駅を、翌日(5月30日)に出立して、6日の締め切りを守って、江戸に向かうように命じている。
確かに、6月6日に江戸藩邸に到着している。延岡藩も2000両の遊び金は無いはずでどこかから調達したのであろう。
6月18日に、掛川の宿に江戸藩邸から根本内蔵介、糟沼光源治の他5人が2000両を持参して到着している。

今回の緊急出費の財務責任者は、長谷川許之進なのだが、彼は、この時、大阪屋敷にいるので、そっちへの了解を得ておかねばならないので、
池内善蔵と曽根富弥が、6月19日に、本隊より先に大阪に向かっている。

延岡藩が、6月28日に大阪に着いたが、7月2日に、大阪屋敷から江戸藩邸に殿様が無事到着したという報告のため、
先の池内善蔵曽根富弥と、財務責任者である長谷川許之進が江戸藩邸に向かって出立し、わずか6日後7月8日に江戸藩邸に到着している。
すごい健脚である。

【8】大阪着

     
 

概略を示す。

 「6月28日 (晴) (太陽暦:1865年8月19日
  今暁七時(朝4時)に、お供揃いにて、枚方駅を御出立なさい、守口宿西本願寺のお旅宿の森泉寺の御旁休 網嶋で 御小休みなさった。
  ここで、(殿様は) 御陣羽織に、御着替 遊ばされ、お供の面々も陣羽織を着替えました。
  八面の押し太鼓にて、八時(昼の2時)までに、大阪のお蔵屋敷に御着座遊ばされました。
  御着座後、即刻、お供揃いにて、御老中様方に お廻りの勤めを遊ばされました。

  その後、(大阪城に)御登城遊ばされましたが、この時期は、下供(下賤な身分のもの) の取〆(しまり)のため、
  御中間小頭をお供にさせましたら、差支えの筋もありますので、樫村蔵治に関しては、
  明日斗、御中間小頭の方へ出かけて、仰せつけるように、御側役より申し渡しがあった。


道中は苦しかったが、大阪屋敷に入る直前は、派手に麗々しく着飾った様子がわかる。

【9】資料

   1) 内藤家資料:1-11日記-91
    


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