第二次長州征伐(8):京都を通過する時に天気伺い(天皇への挨拶)をするべきかどうかを悩みます 

No.35> 第二次長州征伐(8):出陣して大阪へ向かう途中、京都通過時に天皇への挨拶(天気伺い)をすべきかどうかを悩み、幕府へ尋ねます。

 徳川幕府が滅んでいく直接の原因となる長州征伐を幕府方として参加した延岡藩の膨大資料から、歴史の見直しと忘れられた侍社会に光を当てます。 結果だけの教科書には載っていない現実感のある歴史をまざまざと味わえます。 延岡藩の資料を見ながら、時間とともに追っていこうと思っています。

今回のトピックス


    慶応元年(1865年)閏5月4日、出陣の2日前に、京都を通過するときに、
    天皇への挨拶(天気伺い)をしないで直に大阪へ向かってよいかと幕府伺いを立てます。
    結局、天気伺いをしないことになりました。大阪まで道と宿場も示します。

                                    (2015.9.17)                                     
                                               

【1】 天気伺い(天皇へ挨拶)をすべきかどうかと悩む

延岡藩は、第二次長州征伐の後備として、慶応元年(1865年)閏5月6日に江戸上屋敷を発って大阪へ向かうことになった。
その二日前(閏5月4日)になって、途中、京都で天皇への挨拶をすべきかどうかを迷って、幕府へ伺いを立てている。

実際は、返事も来ず(期待していない)、ただ伺いは立てたという事実だけが欲しいような伺いである。
幕府内も、判断できそうな人は皆で長州征伐に払っているので、伺い先も、御用番の補佐のさらに御留守居宛てである。

閏5月4日の延岡藩江戸上屋敷の日誌を見よう。

     
 

概訳を示す。
「1. 助け御用番である 水野和泉守様に左の(以下の)御伺い書を、
  今朝、(延岡藩の) 御留守居の添え役(補佐役)の 仮役である 近藤速水 が、持参した。
  御仮役をもって、差し出し候処、その落手成る(受け取ってくれた)。

  (差し出した伺い書の文面は)

  この度、御新発に付き、山城路を 御通行に有り為され候間(ので)、
  天気 御伺を為し
  御参内 遊ばされ候旨を、
  仰せ出で候が、然り候の所(仰せつけになるのが当然のところですが)、
  兼ねて、禮服等の用意の及ばずの御触れ通達がありました。

  その上、(今回は、お公方様の)お供の儀も、ござ候わば、
  上京して、天気を相伺い候には、及ばず、直ちに、大阪表に
  罷り越し候に、不吉の儀 ござ候や。

  この段伺い奉り候 以上
       閏五月四日
    助御用番水野和泉の守様 御留守居」


という伺い書を、延岡藩も、御留守居の控えの、さらに、仮役の者が伺ったのである。
その後の延岡藩の記録を見たが、幕府からの返事らしいものは見つからなかったので、返事はなかったとここでは結論しておこう。
ここで、「天気伺い」という独特の言葉がある。天皇への挨拶の事である。
天皇に挨拶に行かなくても「不吉」、不忠の意味か、それとも、後々、悪いことになりはしまいかという意味か? 
実は、延岡藩は、鳥羽伏見の戦いで、一時期、朝敵になってしまったのである。

*****
  言葉>
    @ 助け御用番;今回の出陣により、急きょ任命された補助人事である
    A 落手:うけとること
    B 天気伺い:天皇への挨拶

【2】本来は大名が天皇へ挨拶することはなかった

延岡藩に限らず、西国の大名は、参勤交代の時、京都付近を通過するが、幕府によって、厳しく監視され、
御所へ近づくことは禁止されていたのである。それなのに、延岡藩は、今回に限って、天皇へ挨拶をしようかと考えたのであろうか。
今後、さらに調べてみようと思っている。

後に示す様に、通常参勤交代の時は、京都市内に入らず、南端にあたる伏見から大津の方へ迂回して江戸へ向かっている。
伏見奉行が、目を光らせていた。参勤交代時には、大阪を発つ時に先発隊として使者が、伏見奉行、京都町奉行、その先の関所に
殿様より先に行って、口上を述べている。

「公方様には、ますますご機嫌よくおわせられ恐悦に存じ上げます。
あなた様にはご無事に、御勤番のこと、いよいよおめでたく存じます。
拙者は参勤の為、ただいま、当御番所を罷り通りますことを使者を以て申し入れます」

という趣旨の向上を述べることで、自分が脇道もせず通過していることを知らせるのである。

毛利家だけは、天皇の子孫ということで、例外的に御所に伺いうことが許されていた。
ところが、幕末になり、幕府の統制が低下してきた、維新の6〜7年前ごろから、朝廷側の要請で、
参勤交代で伏見を通過する大名行列に対し、京都に入って、御所に参内し、天皇のご機嫌をうかがうことが義務付けられてきた
延岡藩も朝廷への挨拶をしていたのかもしれない。
大名たちは、参内して土地の土産を献上し、その代わりに天皇から何かを授かっていた。
延岡藩の軍扇(第34話で紹介)もそのようなものか。

【3】大阪までの延岡藩等の宿場

出発前から、宿場は指定されている。途中の混みようでは、とばすこともあった。
出発前に幕府から示された宿場を示そう。途中までは、東海道だが、名古屋からは外れている。

     
 

品川で休憩して、最初の宿泊地は神奈川である。当然最初は、東海道の代表的な宿場で宿を取りながら進む。

<これより東海道>
  品川→川崎→神奈川→保土ヶ谷→戸塚→藤沢→平塚→大磯→小田原→箱根→三島→沼津→
  原→吉原→蒲原→奥津→府中→岡部→藤枝→金谷→掛川→袋井→見附→浜松→荒井(現在は「新居」と表している)
  以後、二川(ふたがわ)→吉田→赤坂→岡崎→池鯉鮒→鳴海

<名古屋から、東海道を通らず、美濃路にすすむ>
  名古屋→稲葉→起→墨俣→大垣

<これより中山道>
  大垣→垂井→関ヶ原→醒ヶ井→鳥居本→高宮→愛知川(えちがわ)→武佐(むさ)→高山→草津

<これより東海道>
  草津→大津→伏見
  東海道は、大津から京都三条へ向かのだが、途中から、伏見に向かう

<これより京街道>
  伏見→淀→橋本→枚方→佐田(守口のそば)→大阪

延岡藩の宿泊または、休憩した場所を現在の地図に示す。
名古屋から東海道を離れて、中山道、そして、少しだけ東海道になり、伏見から京街道に入る。
名古屋まで東海道(赤丸)を来たが、そこから美濃路(青丸)を通り、北へ行く。大垣から、中山道(黄丸)になり、
大津から東海道(赤丸)、そして、伏見に行き、そこから京街道(緑丸)となり大阪へ向かう。

それぞれ丸印は、宿泊予定邸である、名古屋からの東海道を×印で示している。(東海道53次を示す)。
名古屋から以西の東海道はその後、鉄道が通らず。さびれている。
今回の通行道は、その後の東海道新幹線と一致することから、最も通行が容易な道である。
     
 

【6】資料

   1) 内藤家資料:万覚帳=1-7-153
   


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