第二次長州征伐(7):いよいよ延岡藩が出陣します。古式豊かな出陣式を執り行います。 

No.34> 第二次長州征伐(7):延岡藩の出陣です。江戸屋敷では、古式豊かな出陣式が執り行われます。殿様だけの儀式もあります。

 徳川幕府が滅んでいく直接の原因となる長州征伐を幕府方として参加した延岡藩の膨大資料から、歴史の見直しと忘れられた侍社会に光を当てます。 結果だけの教科書には載っていない現実感のある歴史をまざまざと味わえます。 延岡藩の資料を見ながら、時間とともに追っていこうと思っています。

今回のトピックス


  慶応元年(1865年)閏5月6日、ついに、延岡藩も第二次長州征伐のため大阪へ出陣をします。
  そこでは、戦国の昔から続く出陣式の儀式を行っています。そこに揃う品々も珍しいものがあります。

  正確な資料です。殿様は朝早く起きて、殿様の儀式も行います。時に、殿様政挙は13歳(今でいう中学2年生)です。
  江戸藩邸に残る侍にとっても最重要な儀式ですから、服装も最正装です。

                                                     (2015.8.25)                                       
                                               

【1】 いよいよ 慶応元年(1865年)閏5月6日に出陣が決定

将軍家茂自身による御親征として、江戸城を発ったのは、慶応元年5月16日だった。
延岡藩は、将軍本体の後備を仰せ使っているので、後日出発するのであるが、
将軍隊から遅れる事、3週間後に、虎ノ門にある延岡藩上屋敷を早朝出発することになった。

実は、もともとは、1日早く閏5月5日出発と幕府に報告していたが、出発の2日前の閏5月3日に、
幕府へ、1日遅らせて6日に出発する旨を報告している。

延岡藩上屋敷の日誌を見ると、以下の様な文書を幕府へ提出しているので、概略を紹介する。

 「私儀 御後備なので、当初は、当月五日に出立する予定で、そのように申し上げておりましたが、
  大阪に向かう途中に、(家康公を祀る)久能山を参詣したいが、天気があいにくなので、1日だけ遅らせようと思います。
  一緒に向かう神保遠江守から御触れがありました。6日に出発するので、ご連絡申し上げます。」


注>この時、殿様である政挙は、13才(今風に言うと中学2年生程度)である。

【2】出陣式に参列する家来たちへの服装の指定(慶応元年閏5月3日)

原文は示さないが、以下の内容が出陣(閏5月6日)の2日前に出ている。

(1)閏5月4日の延岡藩内の侍達への御触れ

 「お見送りの者たちの衣服 並びに お供する連中の服装は、以前の通りに申し合わせをすること。
  但し、羽織は、丸羽織でも、割羽織でも 勝手次第である。

   1.麻上下の儀も 襠高袴(マチダカハカマ)を用いること。それは、文久2年(1862年)九月申し合わせに従うこと。
     駕籠の場合は、襠高袴を使用しないこと。

   2.(中略)お供をする連中の服装の簡略さは、 文久二年九月申し合わせに従うこと。」


ここで、重要な服装である襠高袴(マチダカハカマ)について説明する。
男子が羽織とともに正装に用いる、襠を高く仕立てた袴である。

2)同閏5月4日の御触れ:来る6日(出陣当日)の朝の手順について

 「1.来る6日は、 殿様の御発途につき 暁七時(朝4時)に1番触れ(太鼓)、七半時(朝5時)に2番触れ、
     六半時(朝7時)3番触れを打つので連絡する。 

   1.来る六日 六半時(朝7時) 御発途に就き 諸向は、七半時(朝5時)に揃って 急ぎ集まることを連絡する。」

     藩邸では、時を知らせる太鼓を打っていた。これは、大目付の担当である。

【3】出陣当日朝の殿様(閏5月6日朝)

     
 

概略を示す。
 「閏 5月6日
   1.今朝 六半時(朝7時)に、 御発途に付き、それぞれ、七半時(5時)に揃って、
     御用席に、そして、 二番触にて、御用部屋に 相揃った。
     但し、御軍使組以上は、麻上下を着用したが、それ以下の連中は、略服(差抜)着用。

   1.今朝は、(殿様に)御膳の外、三菜を差上げた。
   1.大殿様には、御発途後に、他に、三菜とお吸い物に 肴2種とお酒を 差上げた。

   1.殿様は、御支度を遊ばされ、お居間書院に、御着座された。 
     御用席と御隠殿の御側役は、部屋を出て行った。
     御目立て御側役は、退き、 御用席は、御熨斗(のし)を頂戴して退去した。

     但し、御供の御家老 御中老 御用人、成瀬老之進 御側役は、罷り出た。

   1.殿様、御発途前は、御混雑に付き、昨夕に、御隠殿に お入り為され、御盃事を 相済ましなさっていたが、
     猶又、今朝、御支度が済んだ後に、小暇を乞い成され、御隠殿に (再び)お入り為された。

   1.今日、御用席の面々、一統は、召し揃って、御留守中、御政治事の向き、別けて、入念に 相勤めるよう。
     且つ又、御勝手向き(経済関係)は、混雑してはいけないので、猶又、申し合わせを能くして、御明合を計るようにと注意がなされた。」


ここで重要な言葉について、簡単に説明しておこう。
   @御熨斗(のし):祝事の時のお目出度い独特の印であるが、熨斗を頂くとは、中に何がはいっているのであろうか。
     鰹節(=勝+男+武士)なのか?

   A御見立=お見送りのこと
   B触れ(太鼓):延岡藩邸内の時刻を知らせるために太鼓を鳴らしていた。
     今回、殿様が留守になるから、触れ太鼓を今までの九時(現12時)をやめて、
     五時(朝8時)と四時(朝10時)だけにしようかという案が出たが、
     大殿様の「従来通り」という指示が出たという記録がある。

   C御隠殿とは、神聖な御殿を意味すると思われる。
     延岡藩の場合、どのような意味がある部屋なのかは不明であるが、殿様が心静かにしてお祈りする場所なのであろう。

【4】出陣式(閏5月6日朝)

     
 

出陣式の様子の概訳を示す。

 「御納戸 長持(荷物関係) その他 御行列外の品 が先に出発した。
   御先に御坊主等をやり、御先に、御用の者が出立した。
   今日、御出立(予定の) 松平丹後守様(注>1万石:滝脇家)の 御屋敷に見張り使の足軽を、
   差向けたところ、既に御発途済との報告を受けた。

   今朝 御発途 表御玄関に於いて 御出軍の御式(出陣式)を行った。
   以下の通り。

   1)(一献二献三献の儀式用)
       瓶子(ヘイシ) 白木の三方(の上に)
       土窯(盃)     同 三方
       御肴     同 三方
          打鮑(アワビ)
          勝栗
          昆布
   2)長柄
   3)提
      これらの御給仕は、御小姓が勤めた。

   4)御兜  但し 御陣笠
   5)御太刀
   6)御箙(エビラ)(矢を入れる方立という箱と端手)
   7)御弓
   8)御岡扇 畏し
   9)御鞭
   10)御床几(椅子のこと)
      右 御小姓 不足に付き、御刀番と御小姓が、勤めた。

   11)武者奉行  壱人
   12)御旗奉行  壱人
       御番頭
   13)御側用人  壱人
   14)御介添え 壱人
       御側役
   15)貝役   壱人
   16)太鼓役   壱人

  右 御出軍 或いは 武功の者 相助け儀 候得共 この度は、御畏式に付き 御側廻りが、よく勤めた。」


ここで重要な出陣式について説明しよう。
  @出陣儀式について>
     出陣式は、各家で流儀があるようで細かい部分は、必ずしも一定ではなさそうであるが、基本は戦国時代から決まっている。
     戦に出る前の出陣式において、
     まず大将(今回は殿様)が武装して、南(又は南東)に向かって 床几(ショウギ:椅子)に腰を掛ける。

     式次第は軍師が取り仕切る。 
     左右に一族や重臣があぐらをかいて居並ぶ。

     大将の前に武装した家臣(陪膳役)が肴組の三宝をささげて大将の前に置く。

     大将はまず打ちあわびをつまんで口に入れる。
     長柄役が盃に三度に分けて、瓶子(ヘイシ)から酒を注いだのを、三度に分けて飲み干す。
     次にかち栗をつまんで口に入れ、二の酒を同じようについでもらい飲み干す。
     次に昆布を口に入れ、同じく三の酒を注ぎ飲み干す。
     この行為を一献二献三献という。

     「一に打ち鮑、二に勝栗、三に昆布」の順に食べる。
    「敵に打ち、勝ち、よろこぶ!!」とゲンを担いだものである(受験生と同じ心境である)。

     最後、三献済んだところで、大将が盃を持ったまま立ち上り、1、2歩前に進んで、
     を、頭上に振りかぶり地面に叩きつけて、木っ端みじんに割る。
     次いで大将が軍扇を持ち、軍扇を広げ『エイエイ!』と声をかける。
     一同それに呼応し『オー!!』鬨(トキ)の声を上げる

  A「岡扇」というのは、軍扇のこととは思われるが、「畏(おそれおおい)」という説明がついていることから、
     天皇からの賜りものの扇なのではないか。

  B松平丹後守様(1万石:滝)の出陣について、
     同日に出陣する松平丹後守(1万石)とぶつかっては困るので調べさせたところ、格下である松平丹後守の方が、先に出発していた。

【5】お見送りについて(閏5月6日朝)

     
 

いよいよ、一行が藩邸を出ていく。概訳を示す。

 「今朝、五半時(朝9時)に、(殿様は)御機嫌よく、御発途へ、表御門外より御馬上になり出陣された。
   弥学年寄 月番の七衣左衛門が、当番で御取次をした。

   大目付が一人、御玄関での御式を取敷り、或いは、下座敷まで罷り出て、
   お見送りを申し上げ、外張り部分から外へは、罷り出なかった。
   但し、護守お供の面々は、御屋敷門より出て、お供 致すること。

   1.御行列が立あがり、お供の御家老、御中老、御用人は、御見立(お見送り)を申し上げずに、出立した。
     大殿様からの(指示で)、お見送りの為に、御納戸役1人は 品川でのお休み(場所)まで 罷り出ました。
     当番は、差合わせにて(遠慮して)、御発途の御見立に出られなかった面々は、御帳に記して、御祝儀を 申し上げた。

   1.御発途後に、御祝儀の為 御帳出して、大殿様、充真院様、御姫様(殿様の許嫁)、 御吟味役以上が、記帳し 御祝儀を申し上げた。
   1.右に付 御用部屋に 御熨斗出しは、御脇役が勤めました。
   1.御発途が相済ましたので、(幕府への)お届のため、御用番 御留守居を伺い召し相勤めました」


  荷物掛(御納戸役)が一人だけであるが、追加で、最初の休憩地である品川まで同行している。(最初の宿泊地は川崎である)。

  お見送りのため、ここでは示していないが、藩内要人の嫡子も座敷(御見立席)に招待されている。
  中には、元服まえの前髪有之嫡子も参加している。

  また、発途の済んだ後、祝賀会が開催されているが、その中に、百姓町の御名代も招待されている。
  百姓町とは、現麻布地域で近年まで桜田町と呼ばれていた地域である。
  かって、江戸時代初期に、霞が関地域の百姓たちが、そこに大名屋敷を建てるということで、強制的に、移転させられてできた地域である。
  代官の支配地域である。そこの代表が延岡藩の最大の出来事に招待されているのは興味深い。
  江戸初期からの因縁か、それとも、前回紹介した、延岡藩邸と関係のある庄屋 万次郎なのかは今後の研究を待ってほしい。

【6】資料

   1) 内藤家資料:万覚帳=1-7-153
   


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