第二次長州征伐(6):征長直前の延岡藩内の各種辞令とドタバタ 

No.33> 第二次長州征伐(6):征長出陣直前での人員確保と庄屋からの寄付などを内部の辞令からみる

 徳川幕府が滅んでいく直接の原因となる長州征伐を幕府方として参加した延岡藩の膨大資料から、歴史の見直しと忘れられた侍社会に光を当てます。 結果だけの教科書には載っていない現実感のある歴史をまざまざと味わえます。 延岡藩の資料を見ながら、時間とともに追っていこうと思っています。

今回のトピックス


  前回報告したように、延岡藩は2000名程の陣容を大阪へ送ることになりました。
  延岡からも人は出ていますが、江戸藩邸から多数が出陣します。しかし、江戸藩邸も守らなければいけません。
  不足した人員をいろいろな方法でかき集めています。

  そのような時、江戸近郊の庄屋から100両(~1000万円)という寄付がありました。
  その庄屋とは延岡藩はその額に見合う付き合いがあるはずです。出陣直前の動きを主に辞令から探っていきます。

                                                       (2015.7.24)                                       
                                               

【1】 序

  第2次長州征伐のため、大阪に向けて延岡藩から2000名程が、出陣します。その内の半分弱が、殿様と一緒に慶応元年閏5月6日に江戸を発ちます。
  その頃の江戸市中は、幕府側の御用金の為と称する浪人による盗賊や、薩長側の工作のための動乱もうわさされるなど、不穏の雰囲気が横溢しています。
  延岡藩の江戸藩邸には、先代の殿様(大殿様)をはじめ、要人も残っています。江戸藩邸の防衛もしなければならない。
  また、火事の時の火消隊を出さねばならないなどの義務もあります。人員の確保が急務である。
  それを、残っている各種の辞令から、探っていこうと思う。

【2】 庄屋の万次郎が献金 (慶応元年5月8日)

  延岡藩と関係する庄屋 万次郎が、今回の延岡藩の第二次長州征伐の出陣に対し、
  100両(現在貨幣で、約1000万円に相当)を献金した。
  なぜ、庄屋が1000万円も寄付するのか、庄屋とは、延岡藩とその額に見合う事業をしていたのであろうが、
  そういうことがありうるのか、どんな庄屋かという疑問がわいてくる。
  まず、出陣直前の日誌から庄屋万次郎からの献金の話を紹介したい。

概訳を示す:
「1.庄屋万次郎の儀、この度、御軍用の方に
   金子百両の献納を願い出てきた。 寄特の事に付き、
   御扶持方は、(現在は)二人扶持のところ、 御加増をする。
   高四人扶持に下だし置かれ、しかるべく高を そのまま、通達する。
   御触伺いも 相済みに付き、左の通り、御勘定所より、申し渡しをすること。
           御勘定所」

          「庄屋 万次郎
   この度 御軍用の方に金子の献納の願出は、寄特である。
   よって、御扶持方を、二人扶持から御加増して、高を四人扶持にすることにした。
   右の段、申し渡すなり。

 1.万次郎に 下される御扶持方を、これ以来、 引き無(精米せず)
   正米にて、御渡すること。然るべきは、その段 御役方に、断帳にて、申し渡す。」


  庄屋 万次郎が、今回の延岡藩の出陣に対し、餞別として100両を申し出てきた。
  延岡藩は、今まで2人扶持待遇だった万次郎を、更に加増して4人扶持にしてそれに応える。
  引いていない米(正米)として渡す。」という内容である。
  藩邸内の御勘定所(現在の経理部に相当)に対し、処理しなさいという指令書である。

  ここで、扶持とは、下級武士への俸給の単位である。1人扶持とは、1人1日5合として計算し、年間1石8斗の米が給料としてもらえることになる。
  万次郎が、家来扱いで、4人扶持、計7石2斗をもらうことになったのである。
  ここでの疑問は、庄屋とは、各地域の町民や百姓たちの長であり、行政に組み込まれているものであるが、
  江戸近隣の庄屋が100両(現在の貨幣価値では、1000万円ほど)を延岡藩に寄付するとは、庄屋が100両に見合う付き合いがあったことを意味するが、
  どういう関係がありうるか?武士でない庄屋と延岡藩が親密な付き合いをすることがあるのか?などである。

1) 庄屋(=名主)とは、

  地域によっては、名主、肝煎(きもいり)などと呼ばれる、町民や百姓を束ねる存在であるが、それぞれ行政の長になる。
  現在の村長のイメージに近い。庄屋と名主は同じ意味で使われている。
  地域は、武士集団と町民集団(職人も含まれる)と百姓集団で構成され、それぞれ統治のヒエラルヒーが構成されていた。
  江戸で示すと、町民集団の行政のトップは、町奉行所になる。それは、北町奉行所と南町奉行所が、ひと月ごとに、交互に代わりながら活動している。
  奉行所からの指令等は、江戸に3名しかいない町年寄に伝えられる。各町年寄の下に、町名主(=庄屋)があり、その下に家主がある。

  今回の記録に出てくる庄屋の万次郎は、江戸府内の町名主なのだろうか。江戸、大阪、京都という当時の三大都市では、
  その時期の江戸町奉行から町年寄、火消衆、町名主までの全員の名前を記した記録「町鑑」(まちかがみ)という出版物がある。

  これの文久1年の「万世江戸町鑑」と慶応2年の「袖玉町鑑」をみても、総人数246名からなる町名主の中には、万次郎の名前はない。
  実は、南伝馬町の名主 小実晋右衛門の倅(後継者)に万次郎という名があるが、たとえ息子が金を持参してきたにしても、
  名前は現名主の父親の名前を使うだろうから、これは違うであろう。

  江戸府内の町名主でなく、庄屋を名乗る可能性はあるか?江戸内には、寺社地や代官支配地がある。そこにも庄屋がいる。
  百姓の長なのである。万次郎が、どこの村の庄屋なのかは、今の所、同定できていないが、今後の調査を待っていただきたい。

2)百姓庄屋と延岡藩の付き合いは何か?

  各藩の江戸上屋敷には、殿様が参勤交代で江戸にきている時期は、1000名を超える人が住んでいる。
  食用の米は、各藩の上納米があるが、野菜は、そうはいかず、江戸近郊の村から調達するか、あるいは、江戸屋敷内で栽培している。

  その世話をするのが豪農でもある庄屋である。もちろん、自身が働くのではなく、支配下の百姓に仕事を割り振るのである。
  重複もありうるが、各藩ごとに付き合う庄屋が居ることになる。仕事は、それだけではなく、江戸屋敷内で抱えている馬の世話と餌の確保などもある。
  藩邸内の庭の手入れや、延岡藩が幕府から割り振られる堀の修理などの人員の調達も担当する。

  しかし、彼らの最大の仕事は、藩邸内の屎尿処理である。庄屋が屎尿を藩邸から購入して、自身の支配地農家に販売している。
  これらの収入は、他藩の事であるが、尾張名古屋藩の場合は、屎尿分だけで、庄屋にとって、年間、500万円程の収入になっている。
  延岡藩は半分程ではないか。

  これらの収入があるから、今回の出陣の選別に100両(〜1000万円)を寄付できるのである。
  万次郎は豪農であるから、4人扶持、計7石2斗もらっても大したことではないだろう。
  彼は、「苗字帯刀御免」の身分だったと思われる。
  その理由は、今後の報告で示す予定であるが、今回の延岡藩主の出陣の見送りに来て、出陣後、
  延岡藩主催の座敷での見送り御礼の酒席に招待されているのである。
  苗字帯刀の身分でなければ、庄屋といえども座敷に上がれないはずである。

【3】 急遽雇い入れ

  延岡藩から、多くの兵士を大阪へ出陣させると、江戸藩邸は人手不足になる。
  江戸市内は薩長の兵士の暴動や、幕府の侍をかたる盗賊が出て、治安は著しく悪くなっている。
  延岡藩邸には、先代の殿様(大殿様)や、先先代の当主の未亡人(充真院)や、現殿様の将来の嫁になる御姫様がいる。
  彼らを守る兵士が必要である。

  そこで、1週間前に充真院と御姫様を延岡から警護して江戸の到着したばかりの連中を、褒美をやって、
  急きょ、当分の間、江戸詰めという辞令を出している。
  また、足軽から、格上げして、武士の仕事を割り振った例もある。
  急遽採用した人員の中には、ある日突然脱走する者もいて、管理者は大変である。

1)急遽、外部から雇い入れして今回の出陣に連れて行く例もある。

  いろんな手法で、江戸詰め人員を増やしている。 図2に示す場合の概略:
  「(慶応元年閏5月1日) 海老名晋
  御出陣でお留守中、御人 少なに付き、その方の儀、御番方に御雇勤めに仰せつけられ候。
  よって、1か年、金6両の割をもって御雇中。これを下され候。」


  年間6両(〜現60万円)で武士(浪人?)を雇った。
  それを日割りで計算して渡すのである。
  江戸時代も後半になると、各藩は、財政が厳しくなり、江戸藩邸に置く武士の数を減らし、
  必要時には、臨時で雇うというのが一般的になってきた。

  今回は、急きょ、雇い入れた人間も、大阪まで出張する者もいる
  延岡藩も、この緊急時に、武士を雇ったのであろう。
  口入屋のような武士専門での就職紹介所があったと思われる。
  
 図2> 外部から武士を雇った例    図3> 他藩からの借り武士を自分雇いに変更する例

2)御貸人から自分雇へ(慶応元年閏5月3日)

  図3の場合の概略;
  「1.樋口四郎之助 御貸人に代り、自分雇いにして、「槍持ち」
  「草履取り」を 兼務で 去る月 十八日欠落 致し候旨   左の通り、大目付まで 届がこれあり候段 申し達し候」


  御貸人(「おかしにん」或いは「ごしにん」)とは、他藩へ貸し出した武士の事である。
  延岡藩も他藩から人を借りていたが、それを自藩の武士(自分雇)にしたのである。
  ところが、ある日、突然いなくなった(欠落)。脱走である。探したが見つからなかったので、(延岡藩の)大目付に届を出しているのである。    

3)病気で出陣できない場合(慶応元年閏5月2日)

  概訳を示す:
     「沢野幸兵衛
  御出陣お供に
  仰せつき置きの処、病気に付 内願の段
  御聞き届 取残し置きされ候。 快病次第、 御役より出立 致すべき旨。

     甲斐友蔵儀、この度、
  この度、御進発 御旗本 御後備
  御出陣に付、御道中、御武具方下役の方
  御雇 お供に 仰せつけられ候 御船割 添え人の方
  兼勤めに 仰せつけ候。但し、中奥 御保番に御雇に成られ、御免(正式認可)。
  右の段 申し渡ずべき候」


  直前の病気で出陣できない場合は、猶予するが、快気すれば、すぐに隊に合流せよという趣旨である。

4)これを機会に、引退し、倅(せがれ)に譲る(慶応元年閏5月1日)

 概訳を示す:
  「伊東弁蔵勝手(自己都合で)退身。倅 
   ?午 儀 内願の筋もこれあり
   候に付、この度、
   御出陣につき、御荷物 大阪表まで
   遣られ候に付 差添え 遣られ候。山本吉郎兵衛
   申し合わせ 相勤め候。出立の儀は
   過日 御沙汰 これ有るべき候。 この段、申し聞くべき候
             お納戸役   山本吉郎兵衛」

  これを機に、息子に地位を譲ったのである。息子が。大阪まで荷物運びに加わる。
  今日(閏5月1日)現在、まだ、出立の日(実は、閏5月6日である)は確定していないことがわかる。

【3】資料

   1) 内藤家資料:万覚帳=1-7-153
   2) 「大江戸八百八町と町名主」片倉比佐子貯(吉川弘文館)
   3) 江戸町鑑集成=加藤貴編集=東京堂=慶応2年版=袖玉町鑑
   4) 江戸町鑑集成=加藤貴編集=東京堂=文久1年版=万世江戸鑑
   5) 「大名屋敷の謎」=安藤優一郎=集英社



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