第二次長州征伐(5):征長への延岡藩の陣容と所持武器と出征侍の氏名 

No.32> 第二次長州征伐(5):征長への延岡藩の陣容と所持武器と出征侍の氏名 

 徳川幕府が滅んでいく直接の原因となる長州征伐を延岡藩の資料を見ながら、時間とともに追っていこうと思っています。
   教科書には載っていないイキイキとした歴史が味わえます。

今回のトピックス


   延岡7万石から、侍級(侍分と徒歩)が、389名、足軽が149名、人足を入れて約2000名が大阪に集合しました。
   戦まで、1年間を大阪で過ごしています。大変な出費です。

   延岡藩の戦の陣容は、戦国時代と変わらないものです。持参した古式の兵器も紹介します。
   幕末の戦は、近代兵器と古式兵器が混ざった戦であったことがわかります。

   そして、最後に、この戦に参加した侍級の全員の名前を載せました。先祖を探してください。

                                                 (2015.5.29)                                       

                                               

【1】紹介

  第2次長州征伐(慶応元年−2年:1865-1866)に対しての延岡藩の出陣の陣容と持参した武器と侍級の参加者の名簿を報告する。
  慶応2年の夏の長州藩と幕府側の直接の戦まで、幕府側の一員である延岡藩は1年ほど大阪に滞在している。
  以下に見るように、人夫まで含めて2000名余が延岡藩から戦場に赴いている。

  大人数である。また、延岡藩は時代遅れに見える戦国時代の陣立てと武器を所有していたようだ。
  その古式と近代が混在した戦の様子を今回は陣容と武器を中心に報告する。
  延岡藩は、大砲に関しては、まずまずのものを持っていたが、銃に関しては、全くお粗末であった。それは、致命傷であった。

  また、最終的に参加した延岡藩の侍達の名前も紹介したい。

  皆さんの御先祖の名前を探してほしい。

【2】当初の出陣予定規模

  慶応元年4月25日、出陣のほぼ1か月前に幕府へ報告した延岡藩の出陣計画である。
  右第1図の様に、江戸屋敷からと延岡からの参戦者数を報告している。

【3】最終的な出陣の陣容

  第2次長征が終了した直後の慶応2年9月にまとめた延岡藩の最終的な陣容を示す。
  具体的な氏名は、次の項で示すこととして、兵力の陣容を見ると、戦国時代の戦の陣立てに似ている。
  それが興味深いので、詳細に述べたい。

  軍は、先備(主力部隊)と本備(殿様が居る)に分かれている。以下に示す人数の内の( )内の人数は、
  その人個人の従者である。多分、彼らも少しは戦力なのであろう。
  右に示す写真は(鳥羽伏見の戦い時の延岡藩の)家老とその従者(刀を所有している)である。
  主人の世話をしながら、且つ、主人を守ったのであろう。

  延岡藩は、部隊を先備(主力部隊)と本備(殿様を守る)に分けている

(2)先備隊(主力部隊)と 本隊(殿警護+荷物関係)の陣容

   (A)先備隊(主力部隊   (B)本備隊(殿警護+荷物関係)
   先隊と本隊を合わせた
   トータルの人数構成を右に示す。
   戦力は、562人である。
   人夫を含めると、全員で2000名余になる大団体である。

(3)ことばの説明>

  @鼓手(=鞁手)

    太鼓をたたく人。他に貝手(ほら貝を吹く)、鉦手(鉦をならす)等があるが、これらは、全て、攻撃等の合図を送ったと思われる。
 

  A馬印(うまじるし)、纏(まとい)、旗挟(はたさし)

    馬印は、戦国時代の戦場において、武将が己の所在を明示するために、
    馬側や本陣で長柄の先に付けた印である。馬標、馬験とも言う。

    馬印の前身であり、同様に用いられたものに、旗の形をした旗印(はたじるし)、
    旗の形ではないものを馬印とし、更に時代を下ると馬印は大馬印と小馬印に分かれ、
    大馬印に対応する旗印は(まとい)と表記されるようになる。

    戦国時代から江戸時代にかけての戦時には、一つの部隊である(そなえ)ごとに旗組が組織された。
    指揮官である侍大将やその主家を示す大馬印・纏を幟旗の側に、
    侍大将の側には小馬印を置き、備の位置や武威を内外に示した。

    同様に個々の武士が戦場で目印として背中にさした小旗を旗指物(=旗挟:はたさしもの)と呼ぶ。
    出世して武将になると旗指物をそのまま馬印に用いる場合もあった。
    (右図は、有名武将たちの代表的な馬印を並べたもの)

  B手臼砲(しゅきゅうほう)

    臼砲は曲射砲の一種の火砲である。
    英語ではmortarで、乳鉢や臼を意味するが、極端に肉厚で短い砲身が臼に似ることから臼砲(=モルチール砲)といった。
    低初速なため装薬の爆発圧力が低かった。

    城壁やコンクリート壁を破壊するための大重量の砲弾を、
    金属知識が未熟な時代に、低強度の砲身で発射できたため、
    中世から現代にかけ、城郭や要塞攻撃に多用された。
    幕末の日本にはオランダ製の12ドイム臼砲と20ドイム臼砲が持ち込また。

    近代兵器の迫撃砲(これもmortarという)に似ている。
    手持ちタイプの臼砲を手臼砲とよんだ。右図が、そのような例である。
    銃身を極端に太短い砲身に替えたようなもので、この例の場合の砲身は真鍮製らしい。

  Cフランス製忽砲(ホーイッスル砲)

    モルチール砲とカノン砲の中間的な大砲で、多目的に使用できる。
    幕末時の延岡藩は、大砲には熱心で高島秋帆(高嶋流砲術)やその後継である江川坦庵に人材を送り、
    当時、日本でも最先端の技術を保有していた。

    延岡藩が今回の戦に持参したのは、ホーイッスル砲(=忽砲:榴弾砲:径の割に砲身が短いもの)であった。
    ホーイッスル砲も臼砲も、上に発射して、上から敵を攻撃するタイプで、射程距離は短く、命中精度も低い。
    手臼砲、ホーイッスル砲などは、高島秋帆の流れを汲んだものである。

    幕末時代の世界の最先端は、1855年に発明された元込め式で充填時間が大幅短縮されたアームストロング砲で、射程距離も大きかった。
    これを所有するのは、長州藩と少数の藩のみであった。

  D手筒

    片手に持って撃つ小銃。ピストルの大形のもの。
    (右図の様なものと思われる)。手筒花火はこれから派生したものか?

  E持筒

    火縄銃の事である。大名家の軍制の中では、持筒で構成された御持筒組は藩主の親衛隊として配備された。

  F鑓(やり)、槍(やり)、弓

    鑓(やり)専門、槍(やり)専門、弓専門が各2名参戦している。

    近代戦では、消えゆく武術であった。鑓(やり)も槍(やり)も長い棒の先に剣状のものをつけた武器である。
    チャンバラ映画に出てくるのは、槍の方である。鑓と槍違いはよくわからないが、延岡藩では、区別している。

  G檜奉行

    檜奉行というのは、意味不明であるが、内容からすると、修理を行う部署ではないかと思われる。
    江戸幕府内にも田沼意次によって檜奉行は作られている。
    延岡藩の部隊には、大工も18人参加している。

  H小荷駄

    荷物。兵站

  I祐筆(ゆうひつ)

    貴人に仕える書記。文書や記録を担当している職(の人)

【3】最終名簿

  第2次長州征伐終了直後に編集した名簿である。最終的に、大阪に集合した延岡藩関係者といえる。侍分+徒士である。
  参加しながらも、足軽、中間、人夫は、載っていないと思われる。先祖の名前を探してほしい。

    この名簿の中に、以前も紹介した落語家の2代目柳家小さんの実兄(大藤実蔵)が御坊主として参戦している。

【4】資料

  1)内藤家資料:1-7-153 : 万覚帳(慶応元年)
  2)内藤家資料:1-29-837 : 滞芸武者分調(慶応2年)
  3)内藤家資料:1-29-86 : 御滞芸武者帳(慶応2年)
  4)内藤家資料:3-20-243 : 人増減並武者分(慶応2年)



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