第二次長州征伐(4):江戸に向かう延岡藩の充真院が将軍と東海道ですれ違う 

No.31> 第二次長州征伐(4):江戸に向かう延岡藩の充真院一行が大阪に向かう将軍と東海道中ですれ違う。 

   徳川幕府が滅んでいく直接の原因となる長州征伐を延岡藩の資料に従いながら、調べてみたいと思います。
   幕府も延岡藩も大慌ての様子がわかります

今回のトピックス


   慶応元年5月に、第2次長州征伐に将軍家茂の大軍が大阪に向かいました。

   丁度その時、参勤交代の復活に伴い、延岡から江戸に帰らなければいけない充真院光姫の一行が、
   東海道ですれ違うことになりました。

   江戸藩邸では、どうすればよいか幕府にお尋ねする一方、充真院に逐次情報を送ります。
   大きなミスをすると、御家取り潰しも考えられます。緊張感が伝わってきます。

   一方、充真院は、江戸に帰ることのできる喜びで、観光を楽しんでいます。

   さあ、すれ違いはどうなるでしょうか。

   充真院は、情感豊かな紀行文を残しています。その紀行文の一部も紹介します。

                                                  (2015.5.29)                                       

                                               

【1】事件とは?

将軍家茂が、第2次-長州征伐に自ら進軍するとして、慶応元年5月16日に江戸を発った。
実は、延岡藩の充真院と姫様一行が延岡を発ち江戸に向かっており、東海道中で、将軍とすれ違いそうである。

第二次長州征伐のこの時しか起きえないことが、起きてしまったのである。  

【2】充真院とは?

第6代藩主-内藤政順(まさより)は、先代の政和が20歳で急逝したため、10歳の時に6代藩主として家督を継いだ(文化3年=1806年)。
そして、文化8年(1811年)に、彦根藩主 井伊直中の9子である、充姫(=繁子)(1800〜1880=明治13年)を正室として迎えている。

この繁子は、井伊直弼の姉にあたる。当時、政順は、15才、繁子は、11歳であった。
繁子に、出産記録はある(文政2年=1819年=19才時)が、その子は大きく育たなかったようで、結果的には、実子の後継者はなく、いつか養子をとらざるを得ない状況であった。

延岡藩主の政順は、39歳の時(天保5年=1834年)に、体調を崩し、危険状態になった。ところが、延岡藩は、まだ後継を幕府に届けていなかったのである。
このまま、後継者が決まらず、政順が死去すると、延岡内藤藩は取りつぶしなる。緊急に、後継ぎを決める必要が出てきた。

それで、結果的に、政順の妻である繁子の末弟である、銓之助(井伊直恭)が養子に急遽決まって、第7代藩主ー政義と名乗った。
この直義は、井伊直弼の実弟であり、繁子の実弟でもある。繁子は、先代当守未亡人となったので、充真院と名乗った。
6代-政義は、明治21年まで長生きをしたが、桜田門外の変(安政7年=1860年)で、井伊直弼が暗殺されたことで、
井伊家同様に、延岡藩に累が及ぶことを避けるため、政義も、急きょ、掛川藩太田資次の六男(当時8才)を養子に迎え(安政7年=1860年)、
文久2年(1862年)、政義42歳の時、当時10歳になった養子−息子に家督を譲り、第8代藩主ー政挙が誕生した。

以後、政義は、藩内では、大殿様と呼ばれている。
8代藩主が幼いため、延岡藩内では、充真院と大殿様が実質の決断をしていたようだ。

【3】充真院は、なぜ延岡に帰ったか? 参勤交代はどうなった?充真院とは?

充真院は、井伊家江戸藩邸で生まれ、延岡藩に嫁いだ後も、内藤家江戸藩邸で過ごしているので、江戸から出たことはなかった(遊び等で鎌倉までは行ったことはある)。
その充真院が、延岡―江戸間を2度だけ往復している。おそらく、気が進まなかったであろう延岡に帰らなくてはならなくなったのは、幕末の文久2年(1862)、
幕政改革により参勤交代が緩められ、大名は、3年に1年または、100日の在府でよいこととなり、かつ、大名の妻、嫡子も在府でも在国でもどちらでもよい(勝手次第)ことになったためである。

その後、参勤交代制は、慶応元年(1865年)に復活され、藩主夫人等は、再び、江戸へ戻らなくではならなくなる。
今回の事件はこの時の話である。

(1)第1回目の延岡紀行

充真院は、御姫様(7代-政義の娘である光姫)と一緒に、江戸を去り延岡に向かうことになった。
この光姫は、現藩主8代−政挙(掛川藩太田資次からの養子)の婚姻相手でもある。

最初の紀行は、文久3年(1863)の4月6日に、江戸を発ち、途中、大阪の延岡藩屋敷で8日ほど休んだのち、海路6月1日に延岡についている。
充真院は、60才を過ぎて、かつ、夫もいない延岡に、初めて、行ったのである。

(2)延岡からその2年後

元治2年(1865)=慶応元年に参勤交代は復活させられ、充真院光姫は江戸へ帰ることになった。

その道中が、今回の話題である。延岡港を3月15日に発ち、海路で大阪に4月13日についている。
4月22日に大阪の屋敷を発ち、陸路で、江戸には、5月27日についている


この途中に、5月16日に江戸を発ち大阪へ向かう徳川家茂一行と東海道の途中ですれ違わねばならないのである。

(3)2回目の延岡行と東京への旅

その後、充真院は、江戸幕府が倒れた直後の慶応4年(明治元年:1868)閏4月に江戸を発ち延岡に向かっている。
そして、明治4年12月に東京に移動している。

文才と画才に恵まれた充真院は、江戸―延岡間の4度の旅行について、紀4編の紀行文を残している。
女性による紀行文としても珍しい。

   1) 『五十三次ねむりの合の手』 (江戸から延岡:文久3年4月〜10月)
   2) 『海陸返り咲こと葉の手拍子』 (延岡から江戸:慶応元年3月〜5月)

   3) 『三下りうかぬ不調子』   (東京から延岡:慶応4年=明治元 閏四月〜6月)
   4) 『午ノとし十二月より東京行日記』 (延岡から東京:明治5年1月〜2月)

【4】充真院の延岡から江戸に向かう旅
  幕府から「むやみに東海道を旅行するな」という御触れがでる

公方様(将軍家茂)の江戸出発が5月16日に決まった頃の5月1日に、各藩へ、

将軍が出発する前の5月5日から、大阪到着の5日後まで、人馬の継立方に差支えが出るので、急用でない限り、通行を見合わせるように。

という趣旨の御廻状が届いた。延岡藩邸内では、慌てて、江戸城に出向き、充真院たちが既に江戸に向かっている趣旨を届けている。
事前手続きに急いでいる延岡藩の 5月14日の江戸藩邸の日記を見てみよう。

   言葉>継立:江戸時代、宿ごとに人馬をかえて送ること。
       宿継ともいう。駅伝である。
       この時代の駅伝の様子を示した歌川広重の湘南の藤枝での浮世絵を示す。
       当時、輸送される荷物は何度も馬を変え、人を変えて輸送されていた。
       飛脚も同様であろう。

【5】江戸藩邸の記録=慶応元年5月14日

慶応元年5月14日、将軍家茂が江戸を発つ前に、延岡藩は、充真院一行が将軍とすれ違う時のトラブルをいかに避けるか腐心しているかを示している。

御触れには、「将軍とすれ違う場合は、前後3日は別の所に控えているように」という指示が出ている。

 概略>

お頼み大目付神保佐渡守様に、充真院様、御姫様が御出府に付き、
公方様の御進発の御旅中に差し掛かった為、

立寄る家や御止宿の場所も無い場合、間道(=脇道)の御通路の場所があっても、
雇い入れる人や馬が無く、間道を通行することを、

(幕府へ)通告しない場合もあるという伺い書を
御留守居役の添役(=副官)で、仮役である近藤速水が持参した。

御用人の脇門利八の家に面会に行って、面と向かったところ、同人の言うには、
一旦、用番様に御伺をなされば、御指図があるかもしれないが、

御伺書を差し出しても、佐渡守は病気なので、指図をすることに関しては、
誰かを送り参らせても、保留ということに至りましょうから

御挨拶をお送りなさって、以下の様になされば、昨今の御混雑の御事の事で有るので、
急速に、できるだけ急ぎ、参る人を送りなさい。

兼ねて、御触れの通り、前後3日間、御通行の節に、お控えなされば、
(公方様の通行が)御済になったことを、よく聞いて、
もし、御差支えが無い場合で、どうしても控えることができない場合は、

間道に回って、江戸に到着した上で、御通行を差かけた都合の筋を御証に付き、
どこの間道筋を回って江戸に着いたかの旨を、お届けをなさり、宜なる旨を聴取するので、伺い書を差し出すこと。

【6】充真院一行は、東海道を江戸へ向かう

<1> 江戸藩邸に残る記録

その途中途中に、江戸藩邸との頻繁なやり取りが残っている。江戸藩邸に記録によれば、例えば、

4月28日の記録に、充真院は4月22日に大阪を発ったと報告が来ている。
大阪から江戸に6日で手紙が届いている!

何事もなければ、5月12日に江戸のつくはずだという内容もあるが、実際は、そのようにはならなかった。
実際に着いたのは、5月27日であった。延岡を発って、2か月と12日かかっている。数日に1度の割で、江戸藩邸に報告書が届いている。

5月16日の記録には、将軍が江戸を発ったことと、充真院たちが去る13日に、大井川を渡り、夕七時に藤枝に着いたことが報告されている。
5月23日に着いた手紙には、去る19日に三島宿を発ったとある。

<2> 充真院日記から

充真院の日記からも、充真一行がいかに、将軍の隊列を避けるために苦闘したかがよくわかる。
江戸藩邸からも将軍の出発情報、状況、そして、肝心のすれ違いの時の気を付けることを頻繁に、知らせてきている。

充真院一行は、帰心矢の如しであるが、はやる心を抑えて、東海道から離れて、やり過ごすのである。
彼女の原文は、味わい深く、素晴らしい紀行文である。
しかし、当報告には長いので、紀行文のエッセンスだけを短く報告する。

是非、原文の紀行文を味わってほしい。
将軍家茂とすれ違う時の緊迫ある部分から六本木の屋敷に帰ってくるまでをのみ紹介する。
最終日は、はやる気持ちを抑えきれず、無理して、六本木の屋敷まで帰っている。

0) (追加  2015.7.17  5月14日(晴):
   江戸から到着した便りを読んだら、(将軍は)16日に御進発なので、
   それより前に早急に江戸へ着くようにということであるが、今日は14日なので何とも仕様がない。
   岡崎からもそのように連絡した通りである。1日くらい遅れても構わないだろう。
   2日、3日遅れは、きつくなるから、将軍との行き会いは、そのままやり過ごそう。

   自分たちも朝早く出立しようとしたが、(将軍の先手組の)御方供歩兵組が通るというので、旅人一人も通っていない。
   道の傍らでやりすごした。(兵士たちは)おかしな道中服で唐人のような恰好をして、後ろ鉢巻きをしている。
   兵士たちの数がだんだん増えて山の様に押し寄せてくる。調練太鼓の音が聞こえてくる。
   行列の中には、黒い陣笠を着用し、皆、剣をつけ鉄砲をかついで後ろに火薬入りをつけ、強い足取りで、太鼓打ち鳴らし、
   白い二寸ほど厚く横筋を肩より袖に着けて、筒袖を着ている。
   行列の中には、馬にて行く人もいる。荷物(長持)も多く進んでいく。

1) 5月18日(晴): 
   今日、三島まで公家衆(公方様一行の事)が通り過ぎているので、三島へ行こうと思った。
   江戸に近づいているので、うれしいことこの上なしとの記述がある。
   足柄山には、馬が遊んでいるところがあるので見に行こうと富士鐘つき堂の所まで行けばみえるだろうと思った。

   公義は、どこまで進んでいるかと調べさせたら、江戸からきた手紙(御下げ札)に、前後三日は、道中見合わせるようにと書いてあった。
   それで、沼津に預けておいた長持の中に入用なものがあったので、家来3人に取りに行かせた。

2) 5月19日(晴)
   5つ頃、大中寺を出る。富士山を堪能し、シャコ貝を伏せたような形だと感想を述べている。
   三島の本陣についた。

   さて、いよいよ、これから将軍一行とすれ違うことになるので、今後、泊まる所を探すが、心当たりの寺は悉く断られてしまった。
   大中寺に戻るのも、外聞が悪い。困っていると、箱根山の後ろにあたる、ここから2里(8km)ほどの所に、玉沢の寺があるというので、
   人を出して頼んでやっと泊まる所が決まった。

3) 5月20日(曇): 
   朝、昼の食事を済ませ、へ向かい、田んぼ道をすすむ。妙法華寺は想像以上に大きい寺であった。
   そして、この寺は、太田様の菩提寺であるという。太田様とは、延岡藩の現藩主 8代―政挙の出身の家である。

4) 5月22日(晴): (将軍一行とすれ違いの日)
   今日もこの寺に逗留していると、管主(その寺の和尚)が面会したいと言ってきた。
   先日とは異なり、今度は、下座に居て、内藤様とは聞いていたが、内藤備後守様の一行とは知らず、太田様との大きなつながりを知らず、無礼をしてしまいました。

   沼津までもお出迎えに出て、浜伝いにご案内し、直接、三島に出ない道を知っておりましたのに、
   また、早く聞いておりましたら、山越えも早々できておりましたのにという。

   逗留中は、お酒を御馳走しようと三島に使いに出したら、将軍の御進発で、店は休みで、酒が手に入らず帰ってきました。
   それで、「やわわ」が好きなら作らせますという。出家といっても見えもなく、そばにいる僧に、太田様から頂いた「麦こかし」を持って来させた。
   また、「御用あれば、何でも言ってくれ。と言っても、山家なので、無いものもありますが。」というので、みんな笑った。

    注> 妙法華寺:現静岡県三島市玉沢にある。日蓮宗の本山(由緒寺院)、山号は経王山。
         新潟村田の妙法寺と共に日昭門流の本山で両寺は左右牛角の霊地と呼ばれている。
         15代日産の時、1621年(元和7年)に大木沢(現在地)に移転し、日産、日達、日亮の3代に渡り再建された。
         大木沢は妙法華寺創建の地名をとって玉沢と改称された。

5) 5月22日: 
   公房様の箱根のお通りを拝見するため、内々に出る。また、箱根の本陣が空いたという情報が来た。
   それなら、明日、出発して、箱根に1泊して、翌日、関所を通ろうかと思ったが、将軍通過の前後3日間は控えよということなので、
   もう一日、この寺に置いてもらって、明後日(24日)に出発しよう。

6) 5月23日(小雨)
   朝六つ半に寺を発つ。

7) 5月26日(雨)
   今日も雨だったが、2日滞留しているので、六つ半時に出発した。馬入の渡しを船で渡る。
   そこを過ぎて、田端の中の道を行くと、御進発のお供の大人数の一行にあたる。立花様白河と阿部様のお供の由。

   弓鉄砲と持ち、鑓も持っている。馬上の人も通る。一行の邪魔にならぬように、 脇によって通って頂いた。
   (彼らの姿は)誠に立派に候。戸塚にかかると、少し晴れてきた。藤沢で、砂糖漬けをもらった。
   境木の宿泊所は、床之間に、御上洛の節、公方様がお休みになったという札が二枚あった。ここでも、「やわわ」を食べた。

8) 5月27日(雨)
   途中、生麦で小休止して、品川かまやまで来ると、御迎えの連中が来ていた。
   お供の連中も、袴を着て、何とかして、六本木の屋敷に着いた。

【7】資料

   1) 明治大: 内藤家資料:1-7-153: 万覚帳:慶応元年5月14日
   2) 充真院紀行日記: 『海陸返り咲こと葉の手拍子』(内藤充真院道中日記):宮崎県立図書館(平成6年3月31日)



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