第二次長州征伐(3):延岡藩出陣直前 

No.30> 第二次長州征伐(3):延岡藩の出陣直前の幕府と延岡藩内のドタバタの様子 

   徳川幕府が滅んでいく直接の原因となる長州征伐を延岡藩の資料に従いながら、調べてみたいと思います。
   幕府も延岡藩も大慌ての様子がわかります

今回のトピックス


   第2次長州征伐に、将軍は慶応元年5月16日に江戸を発ちました。
   延岡藩は、将軍隊の後備として、閏5月6日に江戸を発ちます。

   この間に、延岡藩内、幕府内でも大きな混乱がありました。
   今回は、延岡藩の出発までのドタバタの様子を報告します。

   幕府からは、これから出発する藩への宿舎での注意事項が何度も届きます。付け焼刃の様な対応です。

   延岡藩内では、藩士へ陣羽織を持参する様に指示を出しました。
   しかし、そろえられない藩士も多い様で、殿様から現物を支給したり、調達資金を提供しています。

   また、江戸詰や延岡から召集された足軽達の意識が低いので、長州征伐に先がけて、気の引き締めを行い、
   その後で、小遣いも渡しています。

                                                   (2015.4.27)                                       

                                               

【1】 延岡藩江戸出発まで:御後備の担当が決まる

延岡藩は、御後備が決まり藩内では、名誉の事であると御祝い(御祝儀)している。

内藤家は、関ヶ原の戦いの時は、その前哨戦である伏見城の戦いで、鳥居元忠と一緒に内藤政長は、壮絶な戦死を遂げている。
また、大阪冬の陣では、安房の留守の統治を行い、翌年の夏の陣では、江戸城の留守を守っている。
それほど、家康をはじめ、徳川家から高い信頼を得ている証拠であり、九州で唯一の譜代大名であることからもそれがわかる。

その信頼から、最初の長州征伐では、将軍の後備にあたっており、第2次長州征伐でも、上意により、今回も、将軍の進軍の後備を担当することになっている。
延岡藩内では、名誉なことであると喜んでいる(御祝儀)。

将軍は、慶応元年5月16日に江戸を出立しているが、延岡藩は、最終的に、閏5月6日に出発するのであるが、
その間に、江戸でどういうことが起きていただろうか?

【2】 幕府からいろいろな注意の御触れ(廻状)が届く

いざ出陣というのに、泥縄式の命令が、幕府から、各藩の江戸屋敷に矢継ぎ早に届く。慌てふためいているのがわかる。

(1)後続出発の隊の出発間隔について(5月3日)

将軍の御進発にお供の面々に御廻状がきた。御発途の前後 割合に出立するのは、別紙の様に休泊割を指定するので、
(自分の前のグループが、前の休泊所が空いたら、出発すること)

品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原、・・・これらは、いわゆる東海道53次の宿泊所が、「休泊所」として指定されている。
実は、大阪から先の宿も指定してあり、尼ヶ崎、兵庫、明石、そして、姫路まである。

(2)箱根で人手不足なので、小田原から直接三島へ向かえという指示が出ている(5月13日)

概訳

  「御進発のお供、2番隊まで 追々 出立そうろう処、箱根宿の出力の人馬の継立方が差支えにつき、
  御中軍の外の各隊の面々、小田原から直に三島宿に繰越、止宿の様、心得られるべし。

  大御目付より御廻状が御到来」


箱根宿で人馬の世話役が不足の為、御中軍も、他の隊も小田原から、(箱根での宿泊を飛ばして)、直接、三島の宿に向かうべしという指示が来た。

   言葉>
     出力= 近郷の百姓から動員した手伝い
     継立方=駅での労働者
     繰越= とばすこと

(3)宿泊所に付いての注意事項(5月14日)

  @ 御進発の節、御城や宿泊地にとまった場合、出発は、遅くとも卯の刻(朝6時)に出発すること
  A お先に、出発するときは、お供揃いは、(次の出発の連中より)1時半前(=3時間前)に旅宿を出立し、
    荷物など、後の人迷惑になら成らないように、家来に、兼ねて言い渡しておくこと。

  B 御進発に付き、御出立の面々、御関所を通行の際は、お供方に限り、印鑑 引き合わせはなく、リーダー(頭)だけやればよい。
  C 家来、または、前後の荷方は、通行するときは、覚えの通り、印鑑引合をすること。このことは、お供の面々に洩らさず伝えること。
  D 出立を、日割り通り行動すると、宿駅で滞り、人馬継立方に差し支えることがある。前後の込み具合を考慮して行動せよ。

【3】 延岡藩内の指令=陣羽織を準備せよ(5月9日)。殿様から陣羽織の支給も

  
 
    図2) 陣羽織を準備せよ −1

概訳:軍役以上は、陣羽織を用意持参せよ 

  「御出陣 お供の面々は、御軍使役以上は、陣羽織を用意持参致す旨、昨年中、相すすめ置き候ところ、お並び合いもあるから、
  組外の御役人以上には陣羽織を為着する。

  中小姓組以上は、自分で用意すること。組外の面々には、陣羽織を貸し与える」


   言葉>
     並び合い= よその藩の連中と並ぶこともあるだろうから、恥ずかしくない服装ということだろう
     為着= 殿様から支給する
 

【4】 延岡藩内で、陣羽織の無い者へは、現金を支給する(ので、調達をせよ)(5月13日)

  
 
    図3) 陣羽織を準備せよ−2

概訳:

  「御出陣のお供組の外の御役人以上は、陣羽織を持参すること。
  御中小姓組以上は、自分で用意いたす旨を 相すすめていたが、此れ無き面々には、御手向けとして、壱人あたり、金三分 (殿様から)下さる。

  所持する面々には、修復料として、一人当たり、二分下さる。
  右の段、(殿様)が仰せになった。
  その意を御軍使役以下、御中小姓組以上の面々に、もれなく、早々と申し伝えること。」


陣羽織をそろえることが重要であるが、これをそろえられない者が多かったことがわかる。
そこで、殿様から、お金を支給するから、陣羽織を揃えるように。
また、既に、陣羽織を持っている者には、修理代として、お金を授けるということになった。

  言葉>
    三分= 3/4両。現代の貨幣価値で,約7万円
    二分= 半両。現代の貨幣価値で、約5万円

【5】 足軽についての注意事項(5月22日)

  
 
    図4) たるんだ足軽に注意せよ

概訳:

 「江戸詰めの足軽共の内には、時の利欲の迷い(により)、 御国恩を蔑し、父母妻子を捨て置き、出奔するものも、時には、あった。
 もっての外のことである。

 大問題になるまでは、御容免をもって、 そのままにしておいたこともあったが、今後、このような者が、そのようなことを起こした場合は、
 厳しく、御穿鑿(せんさく)した上で、厳しく、命令し、それによって、前廉(ぜんと=先の事)の詰めを、足軽共に、申し諭し、心得違いの無いように、申し渡すべきである。」


足軽は、延岡藩では、5段階の身分の第3番目の地位である。5段階とは、侍分、徒士小役人、足軽、中間、卒中に分かれている。
今回の長州征伐で、足軽は、重要な戦力であるから、延岡からも呼び出しがあり、江戸にきている者も多い。

江戸の延岡藩邸に、もともといた足軽は、45人であった。(延岡に60人)。この足軽が、忠誠心が薄く、悩みの種であったのであろう。

  言葉>
    御容免= 許すこと
    もっての外= 以ての外
    穿鑿=せんさく= 調査すること
    前廉=ぜんと= 先の事
    屹度=屹与= きっと

【6】 出陣する足軽へ給金(閏5月5日=出発の前日)

概訳:

  「閏5月5日 明日 御発駕にお供を差配されている足軽の内 旅中に役付を相勤め候者に銭を下され候儀 
   左の通り 申し渡す。

   鳥目 百文
     堀 兵庫 組  柳田喜三次 」


以下、16名程に、同額の銭を支給している。
1両は、幕末には4000文当たりなので、100文とは、現代の貨幣価値では、一人当たり2500円ほどである。

大した額ではないが、これも意味のある額なのであろう。今回の鳥目のお与えは、延岡藩出発の前日のことである。

  言葉>
    御発駕= 殿様の駕籠での出発
    鳥目= 銭のこと

【7】 資料

   内藤家資料:資料:万覚帳=明治元年(1865年)=1-7-153



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