江戸上屋敷(2)=現在

No.2> 上屋敷の石垣と明治以降

【1】文科省前の石垣

延岡藩の上屋敷跡には、今は、文科省、霞が関ビル、特許庁等が集まっている。今も、延岡藩上屋敷の石垣は一部残り、国指定史跡として、今も、歴史好きの年配者の訪問が絶えない観光地となっている。是非、一度は、訪問して、昔の息吹を感じてほしいところである。
文部省の前の広場から、道路隔てた向かいの三井ビルにかけて石垣が残っている。 寛永13年(1636年)江戸幕府が全国の大名に天下普請の大号令をし作らせたもので、外堀のこの付近は、因幡鳥取藩主:池田光仲や、豊後佐伯藩:毛利高直らが担当した所である。、

図1)文科省の前の石垣図2)石に残る工作藩の印図3)地下鉄入口から

石垣を見ると、担当した大名の印が付いている。例えば、この写真(図2)に見える矢印は、佐伯藩毛利家が担当したことを示している。残っている石垣の中央部で印が変わっている。2つの藩の作業の境目が分かって興味深い。是非、ご覧ください。
文科省の前の東京メトロ虎ノ門駅11番出入口の地下に少し下った所に、石垣がきれい残されていて、見学し易くなっている(図3)。 地下鉄の外に出て歩道橋を渡って三井ビルの前に、櫓台(やぐらだい)の跡となる石組が残っている。「国史跡 江戸城外堀跡 溜池櫓台」である。 ここは、外堀に張り出した延岡藩上屋敷の東南角にあたる。

【2】虎ノ門隅櫓(すみやぐら)

図4)隅櫓の礎石図5)隅櫓のサイズ

江戸城外堀には、昔、隅櫓(すみやぐら)という小さな天守閣のような建物が3基あった。「虎ノ門」の他に、「筋違門」、「浅草橋門」があったが、現在、その櫓台の石垣が残っているのは、ここ虎の門だけである。今残っているのは櫓台の一部であるが、近くに文化庁の調査結果のパネルがある。それによると、この外堀に張り出した構造の最先端にあった櫓の寸法が分かる。その図面から読み取ると、15.8m×18.4mである 。

 
図6)隅櫓の例:巽櫓(たつみやぐら)(右側)図7)浮世絵に隅櫓を描き込んだ

現在、江戸城の内堀に現存するの巽櫓(たつみやぐら)の寸法は、12.7m×15.0mである。虎ノ門の隅櫓は、これと同等かそれ以上の大きさの櫓があったことが分かる。参考までに、内堀の巽櫓の写真を示す。もしこれが、現存していたら壮観だろうと思う。
この隅櫓は、江戸時代のかなり早い段階で無くなっていた様である。その後は再建されずこの櫓台だけが残った。内藤家上屋敷の敷地には、この櫓台とここに通じる道は含まれていないが、ここの管理も内藤家が担当していた。

この隅櫓が残っていたらどうなるか?、延岡藩上屋敷の浮世絵(歌川広重作「江都勝景虎之門之外之図」=国会図書館蔵)に、申し訳ないが、それに重ねて描くと、図7の様になる。この隅櫓は、敵が攻めてきた時の防御の拠点となるものである。特に、延岡藩の上屋敷は、江戸城の西からの攻撃の防御の拠点であった。

【3】門構え

  
図8)広重作の門部拡大図9)大名格と門構え

上記の図7の広重作の浮世絵の門の部分を拡大してみる(図8)。延岡藩上屋敷の門構えがよくわかる。江戸時代は、大名の格によって、門構えが厳しく決まっていて、逆に、門構えから、石高が分かるのであるが、時代が進むと、一般に簡素になっていった。一般論としての石高と門構えの関係を図8に示す。

当時の門作りの規格によると、「五萬石以上、表門兩番所、石垣疊出し、屋根庇作之」とある。延岡藩の門構えは、切妻造りの両出番所潜戸附きの構造なのだが、7万石の格通りである。この格の門の一番の特徴は門の両脇にある番所の屋根の構造である。番所の屋根が壁から片流れの構造をしている。正確には「両番所附石垣出屋根庇造」という。延岡藩の門構えを現存する類似する門構えを利用して描き込んでみた。 こんな感じだったのだろう。

 
図10)延岡藩の門構え(予想)図11)比較用>黒門(因州池田屋敷表門)

参考までに、現存する最高格の門は、東大の赤門と、上野公園に残る通称、黒門(因州池田屋敷表門)である。黒門の方が構造が分かりやすいので、図11に示す。

【4】金刀比羅宮の今日

延岡藩の外堀を介して向かい側に、讃岐丸亀藩京極家の屋敷があった。(レポート1参照)。その藩邸に中に、讃岐丸亀藩の名所 琴平神宮を勧請して祀ってあった。毎月10日の縁日に、金刀比羅宮を一般に公開したため、江戸っ子たちが集まり、大変にぎやかだったらしい。その様子は、多くの浮世絵に描かれている。
現在の、金刀比羅宮は、虎ノ門琴平タワービルと虎の門三井ビルディングの間に、ちゃんと残っており、行きかう人々が多く参拝している姿が見られるところである。

明治2年(1869年)12月20日に、江藤新平が葵坂にあった佐賀藩邸に伺候した帰りに暴漢に襲われた所である。近くにその趣旨の碑がある。




【5】虎ノ門

外掘りに面し、西の入口である虎ノ門は、現在は、中央官庁街の中心部に近いため、維新直後に最初に変貌した所である。虎ノ門は、現在の桜田門等と同じ枡形門の形状をしていた。その虎ノ門は、明治6年(1874)年に撤去されたのだが、幸いなことに、撤去前の写真が残っている。

その写真の虎ノ門の西隣(写真では、向かって左側)に屋敷が見えるが、これは、旗本:村瀬平四郎宅と思われる。同宅は、延岡藩の北隣になる。もう少し、左側も写っていれば、撤去前の延岡藩の上屋敷が見えたのにと残念である。次章で述べるように、延岡藩上屋敷や先の村瀬平四郎宅は、明治4年に、新政府へ明け渡されて撤去されたので、この写真は、明治4年かそれ以前と思われる。
また、虎ノ門の前にも、水面の段差があったのが分かる。上屋敷の周りの外堀は、2段階の段差があったでのある。

【6】上屋敷は維新後どうなったか。

内藤家資料によると、9月8日に明治になって直後、延岡藩は、虎ノ門屋敷と六本木屋敷を拝領したい旨を申し出たのだろう。11月5日に拝領の許しが出たということで喜んでいる。

★内藤家資料(明治大所蔵):2-10-289「虎の門内居屋敷等下賜御沙汰書」
★内藤家資料(明治大所蔵):1-4-262「東京虎門内屋敷御願拝借御祝儀帳」
明治2年になっても、藩士は残っていて、新政府から、虎の門屋敷(上屋敷)と六本木屋敷(下屋敷)を夜間見回りをせよという命令が出されている。
★内藤家資料(明治大所蔵):3―9藩政一般―439
「上屋敷六本木屋敷見夜中見廻り仰せ附け候覚え」

そして、ついに明治4年7月に、東京府から延岡藩に対して、上地令がでている。「土地を差し出すように。2300両を与える。」という命令が出たのである。上地とは、土地を没収すること。右図に、内藤家資料に残るその命令書の写しを示す。
★内藤家資料(明治大所蔵=著作権):2-10-289「虎之門藩邸上地之達」


【7】上屋敷跡に東大工学部の前身が建設される

明治4年に 東大工学部の前身である「工学省工学寮」をこの地に作ったのである。つまり、上屋敷を差し出したのは、工学校を作るためだったのである。その記念碑が文科省敷地内に立っている。その文面にも、もとは延岡藩の藩邸であった旨がある。
その後、明治6年(1873)に、工学校になり、明治10年に工部大学校になった。
明治19年に、東京大学と合併し、工科大学となった。
ここが、日本での工学の発祥の地である。その一つの証左が、明治11年(1878年)3月25日、ここ虎ノ門工学校の講堂にて、伊藤博文工学卿からの指示により、我が国初めての電燈(仏製デュボスク式アーク灯)が、50個のグローブ式電池を用いて、点灯した記念の場所でもある。  
図15)工学校の記念碑図16)碑文のアップ

 
図17)上屋敷跡に立つ工部大学校図18)虎ノ門付近の当時の地図

上の図17は、虎ノ門のそばから見た延岡藩上屋敷跡に建つ工部大学校である。手前の青年がよりかかる橋が、虎ノ門の前にある橋である。この校舎は、イギリス人マクビンの設計による煉瓦造りのエキゾチックな建物となっている。明治6年12月に竣工された。時計塔が珍しかったようで、当時の多くの浮世絵、錦絵の画題となっている。当時の地図を図18に示す。図18の地図でも校舎の形がわかる。この時は、まだ、堀端の石垣は昔のままである。




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