第二次長州征伐(2):軍令が幕府より延岡藩に届く 

No.29> 第二次長州征伐(2):延岡藩へ軍令が届く 

徳川幕府が滅んでいく直接の原因となる長州征伐を延岡藩の資料に従いながら、調べてみたいと思います。

今回のトピックス


   幕府は、第一次長州征伐で勝ったので、第2次征伐でも危機感はありません。

   各藩の集団である幕府側の軍隊内の規律として、実質、関ヶ原の戦いの直後に決まった軍令を各藩に配布しました。
   もう時代遅れの内容も入っていますが、皆、ありがたく頂きました。我が、延岡藩も同様です。

   「喧嘩両成敗」の考え方の基になったものです。                                         (2015.3.28)   

                                               

【1】 軍令

第二次長州征伐が決まったあと、出陣をきめた各藩へ、幕府から軍令御下知条が届けられている。
延岡藩へも延岡藩の出陣の1月前の5月4日に届いている。

軍令とは、軍内部での統率令であり、延岡藩をはじめ、各藩内にも存在するものである。
今回、幕府から届いた軍令は、後述する資料内にも明記してあるように、「慶安の軍令の御定めに従い」指令する旨が記してある。

慶安の御定めとは、何か?
もともと、軍隊の規則である軍令は、関ヶ原の戦い以後の慶長10年(1605年)に、初の軍役規定ができ、最終的に、慶安2年(1649年)に軍令として確定した。
石高に応じて、各種軍役の人員や軍備等を決めていたものである。

例えば、「徳川禁令考」前集第一には、「若軍役於不足之族有之者、急度可為曲事、軍役之外者嗜次第召連可為忠節者也」
(若し、軍役において、不足する者が居たら、必ず、曲事である。軍役以外は、好みに合わせて、連れてこい。それは忠節な者である)
とある様に、指定した数は、最小限のもので、それを超えるものは、忠義な者とみなすのである。

徳川幕府は260年近く続いた礎は、家光時代に作られたといえる。

例えば、武家諸法度、参勤交代、鎖国と続き、最後に、慶安時代(1648〜1652)になって、農民統制の「慶安の御触書」と軍隊の規則である「軍令」が発布されている。
この慶安時代は、3代将軍家光の最晩年であり、実質は、異母弟の保科正之が政策を決めていた時代である。

【2】今回の資料

その慶安の軍令が、200年後の慶応年間の長州征伐でも重要視されて、諸藩に届けられている。
もともとの軍令では、各藩の石高に応じて、出すべき、兵隊の数、大砲の数、弓矢部隊、槍隊の数が事細かに決められていた。

元々の規則を、延岡藩(7万石)に当てはめてみると、
  鉄砲200丁、弓50張、鑓100本、馬上110騎、旗15本、兵隊1463人となる。

しかし、もう時代遅れなのである。例えば、銃の重要性は、格段に変化しているので、以下に示す様に、銃については、多いほど良いと変わっている
(以下の資料中、御下知状の第1条)。また、面白いことに、忍者の記述もある(下知状の17条)。
やはり、幕末時代も忍者が活躍したのだろうか、わくわくする。

【3】軍令(延岡藩内資料より)

慶応元年(1865年)5月4日延岡藩に届いている。軍令すべての条文はなかなか見ることはないので、ここではあえて、16条からなる全文を掲載する。

(1)軍令―1ページ目

  
 
    図1)軍令 −1

概訳は、
「今日、御軍令 御拝懸が相済み、午に、大御目付の田沢対馬守様より 御軍令と並びに
御下知状の写しが、御銘々様に御直に、御渡しがあった。(内容は)以下の通りである。

御軍令
條々(一つ一つの箇条のこと)
 1)この度、毛利大膳 征伐のため 進発に付き、族、並びに、諸軍勢は、萬事、互いに、相慎み、
    不作法の儀は、此れ無き様に、下々に至るまで 入念に 申し付けるべき事。

 2)喧嘩や口論は、堅令、停止し、若し、違背(違反のこと)をした輩がいた場合は
、    理非を論せず、双方を成敗するであろう。或いは、親類縁者の因をもって、或いは、将輩の好みに依って、荷担の連中の負担を変えることは、その科(とが)は、本人より 重くする旨を、
   急度(きっと)、是を申し付けるので、普段から、用心させるにおいては、後日、理由を聞くことはあっても、その主人は重科(重罰)に値する。

(2)軍令―2ページ目

  
 
    図2) 軍令 −2

概略は、
 3)軍令の相対(1対1)での喧嘩は、堅く禁制にする。
    若し,やむを得ず  相対(1対1)での(話し合い)をする時は、仕様が無く、証人を立てること
 4)先手での攻撃を(許可なく)やった場合は、仮令(たとえ)、それで高名を上げたとしても、
   軍法文に、背くので、重科に処するであろう。
     但し、先手へ 行わずして 物見に出てはいけない。

 5)子細なくして他の備えへ、変える輩に於いては、武具 馬具を ともに取り上げる。
     若し その主人が、そうした場合は、曲事(大罪)とするであろう。
 6)人数押し時(大攻撃をする時)、脇道すべからず堅く申しつける。
    もし、猥らに通る輩は曲事とするであろう。
 7)地形 又は、敵の機に逃げし時宜(良いタイミング)に 指揮すべきなので、兼ねて 心得ておくこと。

(3) 軍令―3ページ目

  
 
    図3) 軍令 −3

概訳は、
 8) 盗人 生け捕った者を、みだりに 殺害すべからず
 9) 諸事について、奉行人がいうことに違背(=違反)すべからず。
 10)時々、使いとして、誰かを派遣するといえども、違背 すべからずのこと
 11)持鑓、持筒は、軍役に使うべき。その外、長柄を持たしてはいけない事
    但し、長柄の外に 持っていない者の場合は、主人の馬廻り専用とすべきこと

 12)陣中に於いて、馬を取放してはいけない
 13)田畠 作毛を刈取ったり、或いは、太い竹木を切りとることを
    堅令、停止すること。押買いや狼藉は、すべからず。
    若し違背する者がいたら、大曲事にするぞ。

 14)小荷積押しは、右の方について、軍勢に通ずべきで、相変わらない様にすることを、堅く申し付ける
 15)舟渡し件については、他の備えと同じで、1年越しにすること。
 16)下知なくして、陣払いや、人返しは、一切、停止のこと
    右の條を、堅く、守ること。この外の事は、下知状に載せる。

        慶応元年5月4日

           御黒印

(4)解説

  今回の軍令は、大人数の軍隊の組織を維持するための規約である。
  特に第2条の、いわゆる「喧嘩両成敗」は、軍令で有名になった考え方である。

  また、大阪冬の陣などで、はやって、攻撃をしたために、軍令違反で厳罰に処されたものが居たように、
  「たとえ、高名を上げる様な活躍をしても、軍令に反している場合は、厳罰に処す。」のである。
  「(百姓の)収穫前の作物には、手を出すな、大きい竹や木を切り倒すな」など民、百姓の財産を守ろうとう一文も入っている。

<言葉>

(ア)「御黒印」とは

  ここで示したのは、正式の書類ではなく、届けられた文章を。書き写したものである。
  「黒印状」には、将軍の印が墨(黒色)で押してあるのである。

  他方、「朱印状」は、将軍の発した文章に、朱印が押してある訳であるが、
  将軍に限らず、大名、旗本からも重要な文章に、黒印が押してある場合もあった。

(イ)「長柄」と「持鑓」について


  俗にいう「槍」には、大きく分けて「長柄」と「持鑓」という2種類がある。
  「槍」と言う字を主に使うようになったのは明治以降である。
  「長柄」というのは、陣形の先頭にいる足軽が持っているもので、6mぐらいの長さがあり、戦になると、「突く」のでなく「叩く」感じになる槍である。
  他方、「持鑓」は、長さが、2mほどで、作りのしっかりしており、平士(徒歩の武士)や騎馬武士が用いるものである。
  これは突いて戦闘する。

【4】下知状

  前の軍令の補足ともいうべき下知状は、全部で24条からなる。全文を示す。

(1)下知状―1ページ目

  
 
    図4) 御下知状 −1

概訳は、
「  御下知状

      覚

 1)御軍役の人馬や員数(人員)については、慶安度の御定め通りにするが、大小銃は、増加することは勿論のこと。
   但し、弓隊の件は(各藩の)勝手にしたらよい。
 2)御行列の前後の次第は、堅く守るべき。若し、みだりにふるまう輩に於いては 曲事(=大罪)である。

 3)先頭の大名は、一日ごとに、代りばんこで勤めるべきである。各隊の先鋒も申し合わせて、順番を代わり、それぞれが勤めること。

 4)押前の内(一斉攻撃の前に)、用事があって、行列を離れる時は、その趣旨を、その筋に行き、到着したら、
    僕従は、その場に残り、直に用事を終らせ、速やかに馳付け、行列に馳付けること。
    もし、病人が多いときは、軽い症状の証人を立てて、その筋に行き、直に、申告すること。
    もし証人がないか、又は、誰も行かなくて、後れた者は、厳科(科「とが」=罪のこと)に処せられる

 5)押前の時、山や森林等の所は、敵方の伏せ兵が居るかも知れないが、難しいので、諸隊は、心付け、通行すべきである。
 6)騎馬の者は、用所が有る時は、必ず、馬を脇にひかせ、用儀を調べて後、追い付き乗るべきこと。

    7)に沓をさせるときは、道の脇に行く様に計らい、(そこで)沓をかけ、当該の馬は、(前の馬の)次へ並んで乗るように。
    その後で、以前の位置まで、行くように。
 8)馬がはりつく時(動かなくなった時)は、後の馬は、道脇に行く気遣いをして、前の馬の次に、行くようにすべき。
    その後で、(本来の位置に)追い付き 乗り入るべき事  」

(2)下知状―2ページ目

      
 
    図5) 御下知状 −2

 9)乗馬に荷積をした場合は、持主は、それぞれの前に、何番隊かを記すこと。書いた札を聞かれたら、その通りに言うこと。
 10)軍中に於いて、もし馬を、取放つ者がいたら、それは、重科を課し、口取(=餌)は、原っぱで行うこと
 11)御陣中では、物静かに致すべき。たとえ いかなる理由があろうとも、下知(命令)なくして立騒ぐべからざる事 

 12)御各陣にて、毎夜、四方に篝火を焚き、御先手の番兵の者2~3人にて、遠見番を務めること。
     篝火の人夫は、陣場奉行が差出す。燃料の?は、御代官が差出すべきこと。
     但し、それぞれの陣の四方に限らず、各隊での、篝火は、不吉である。

 13)毎夜、寝ず番は、一隊の十分一(の兵隊)を心掛けて、巡還を懈怠(けんたい)なく、務めること。
     但し、(順番で代わった)改支配は、その節に巡回し、各隊の番兵も 是に準じて、昼夜、その備えを一番にすること
 14)御陣中では、火の用心に油断しないこと。特に、火薬については、特別で、入念に取扱いし、昼夜に限らず、番兵は、厳重に付いて守ること。
    若し、誤ちがある時は、曲事(大罪)とする。

 15)御陣所役は、策略は、無いように、毎隊の種々の隊長の面々は、急度、
    組支配の下々に至るまで、厳重に、申しつけること。
 16)陣中味方の異変を聞いいたか、あるいは、敵の様子を聞いた者は、昼夜に限らず、早速 その筋に訴えに申すでること。

 17)夜付や忍びの者は、勤めの守衛を油断なく、複数で守るべき。敵方の様子を 昼夜に限らず、
    穿鑿(せんさく=綿密に調査すること)して、その様子によって、差図を仰ぐこと。
    種々の遠見間者は、懈怠なくして、直に敵の様子を知らせてくること。

(3)下知状-3ページ目

  
 
    図6) 御下知状 −3

概訳は、
 18)謀書、矢文、捨て文、張訴などを見つけたものは、そのまま、大目付、小目付に報告すべきこと
 19)諸向 並びに、改支配は、勿論 下に至るまで、公用が最優先で、内部の細かいことは無用である

 20)銘々が得た道具は、勿論、お貸渡しのものである。道具を 損失した場合は、早速、その筋に
     申し出るべき。若し、道具を 損失したために、後れを取った者は、曲事たるべきこと

 21)落人の件については、男女 幼少の者に、限らず、御行列が捕まえ取り、差出すこと。
     若し、隠した者がいる場合は、曲事であること。
 22)陣中に於いて、伝染病を患う者が出たら、少数である内に早速、その旨をその筋に、行って報告すること。
     手当てを、申しでること。

 23)御出征中は、親族の忌の扱は変えること。但し、父母の弔いの場合は、三日間、勤番を休ませること。
 24)毎日、夕方、七ツ時に御本陣に 出席すること。そこで、大小の御目付より 合詞と合印を、それぞれの改支配の主人に 申し渡す。

    御行列の諸向の面々の組支配下の者へ 申し渡すべきこと。
    但し、時宜(タイミングの良い時)によっては、このルールにこだわらないこともある。

    以上の条文に於いて、違背の者は、追加の科の軽重が問われるであろう。厳科の旨を、上より仰せつけ、執達する。 
    件の如し

           慶応元年五月四日  

                 周防守 (老中: 松平康直)、
                 伊豆守 (老中格: 松前崇広)、
                 豊後守 (老中: 阿部正外)、

                 伯耆守 (老中: 本荘宗秀)、
                 和泉守 (老中: 板倉勝静)、
                 美濃守 (老中: 稲葉正邦)、

                 雅楽頭 (大老: 酒井忠績)

(5)解説

(ア)下知状とは?


    慶安の軍令では、あまりに古く、現実に合わないものもある。それは、武器に関してである。
    銃の重要性が増し、弓矢はどうでもよくなっている。
    そのような、補充の目的で、上記軍令と一緒に御下知状が、大老、老中名で出されている。

(イ)忍者や間者、遠見

    21条にあるように、この時代でも、「忍びの者」(忍者)が、活躍したのであろう。
    各藩に、忍びの者はいる。延岡藩にも、それらしいものがいる。別の報告で、延岡藩の種々の武芸者を紹介する予定である。
    他に、「間者」は、スパイである。具体的には、どういう者をいうのかは不明である。
   「遠見」は、文字通、遠方を見る係の人であろう。

(ハ)今回の周囲すべきことば

     @曲事=大きな罪
     A違背=違反

【5】(付録)3代将軍家光と異母弟であり補佐役であった保科正之について

 徳川幕府250年の中で、家康とならぶ、最優秀の為政者ではないだろうか。
 保科正之は、秀忠の妾腹の子で、家光の腹違いの弟であり、最も忠実な部下であった。彼の業績を列挙すると、

  @ 承応2(1653)年、多摩/羽村から全長43キロを経て、四谷大木戸「水番所」から地下を通して市中へ給水された。
  A 明暦3(1657)年に発生した大火での行動力・統率力である。将軍を移さなかった
    「若し本城焼失せば西城に移り 西城亦焼失せば本城の燼址に陣屋を作りて移るべし 何ぞ城外に避くることあらん

  B 焼け出された者に対して即座に16万両を拠出し、武士や町人を問わない復興の資金援助を実施した
  C 焼死した人たちをともらうために、両国に回向院を建てた

  D 防災に強い都市への改造すべく
  E 再建すべきと主張する居並ぶ老中や長老らの大反対を押し切って、今でいう「ハコモノは要らぬ」と
    無駄な出費をさせず、江戸城の天守閣再建は着手すらさせなかった。

 他に、家光の代に、保科正之と家光による業績として、

  @ 寛永12年(1635年)の武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務づける規定を加える。
  A 寛永19年(1642年)からは寛永の大飢饉対策

  B 家光が崇敬する大権現(家康)を弔うために、寛永13年(1636年)に東照宮を造営すると、日光社参を生涯のうちに10回行っている。
  C 寛永14年(1637年)の島原の乱を経て寛永18年(1641年)までに鎖国体制を完成させた

  D 正保元年(1644年)には全国の大名に郷帳・国絵図(正保国絵図)・城絵図(正保城絵図)を作成させ、
      農民統制では田畑永代売買禁止令を発布

(2)慶安時代とは、

  @ 1648年(慶安元年戌年2月15日)から1652年(慶安5年9月18日)までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。
  A 江戸幕府将軍は徳川家光から徳川家綱の時代になる
  B 家光は、慶安4年(1651)に死去している。

【6】資料





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