第二次長州征伐:将軍の進発儀式 

    

No.27> 第二次長州征伐(1):将軍家茂が江戸城を進発 

徳川幕府が滅んでいく直接の原因となる長州征伐を延岡藩の資料に従いながら、調べてみたいと思います。

今回のトピックス


    幕末の最終段階序章である長州征伐、特に、第2次長州征伐を、延岡藩の目で見直していこうと思います。

    徳川家への忠誠心の大きな譜代大名である延岡藩の行動は、興味深いものです。
    長州藩と薩摩藩から見た歴史が、日本史となっていますが、そうではない見方をしたいと思います。
  

                                                 (2015年1月27日)


【1】 第1次、第2次の長州征伐の背景

当レポートでは、延岡藩が終始、徳川幕府側についたことから「長州征伐」という言葉を採用している。
長州側では、この戦を「四境戦争」と呼んでいる。

この時代の天皇が異人大嫌いの孝明天皇であること、尊王攘夷と公武合体の論争の時代であることがこの戦の背景にある。
ともに、尊王であることは変わらないが、幕府との共存か、攘夷かという少し違った論点である。

和宮の降嫁によって、朝廷でも公武合体(朝廷と幕府の共存共栄派)論が勝った。
その直前には、尊王攘夷派の水戸藩士による坂下門外の変が起きている。
この時、実は、長州藩の桂小五郎も同意していたが、その頃の長州藩では、公武合体派が優勢の為、最終的に彼は、この行動に加担しなかった。

この対立で最も決定的なのは、文久3年(1863年)8.18クーデターである。
公武合体派が尊王攘夷派を朝廷から排除し、尊王攘夷派の三条実美ら七卿ともども、長州藩が京都から追放された事件(七卿落ち)である。

この直前に、薩摩、長州で大きな事件が起きている。
長州藩の下関での米仏等との下関戦争(文久3年6月)、薩英戦争(文久3年7月)によって、
海外列強の強さを知り、攘夷は、絵空事であることを思い知ったはずである。

それでも凝り固まった攘夷論者は居たが、その中で、尊王攘夷派と公武合体派の論争であり、
この時点では、公武合体派が勝ったクーデターであった(8.18クーデタ―)。

京都から追放された攘夷論者であったが、それでも、京都では、残党による失地回復が図られていた。
その一つが、時の孝明天皇を長州へ奪取しようという計画があり、桂小五郎も関係していたが、
その談合の場である池田屋を新選組が急襲し、攘夷派が多数の犠牲者を出した事件:
池田屋事件(元治元年6月)が起きた。(桂小五郎はここでもうまく逃げている)。

そして、長州の中でも真木和泉、久坂玄瑞を中心とする攘夷論者らと、長州藩の世継ぎである定家や、
追放七卿の一人である三条実美は、兵を率いて京都に参じ、天皇奪取を試みたが、薩摩、会津、桑名の軍と新撰組によって撃退された。
(元治元年7月:蛤御門の変=禁門の変)。

この事件で、素朴な攘夷論者は消えてしまった。
2015年度の大河ドラマの重要人物であり、松下村塾きっての秀才といわれた久坂玄瑞もこの戦で亡くなっている。
この戦にも桂小五郎が参戦していたはずであるが、彼は、このあと、身を隠して、長州藩内の最も危機的な段階であった藩内クーデターに関係していない。
この変によって、長州は「朝敵」になってしまい、長州征伐と長州藩内のクーデター事件が起きるきっかけとなっていく。
(高杉晋作の活躍する長州藩の内紛はここでは触れない。)

【2】 第1次長州征伐

朝敵となった長州への攻撃指令が出る(元治元年8月)。ここでは、矢継ぎ早に決断されていく。
幕府側は、尾張藩の前々藩主である徳川慶勝を征長総督にして、15万人の動員をかけて、長州へ進軍し、実戦もなく、威圧のみで長州側への降伏条件の吟味に入った。

長州側の全面降伏であり、長州藩主親子の毛利敬親と定広の処分、3家老等への処分が吟味された。
処分が不明確なまま、幕府側の勝利で早々と撤兵が行われた(元治元年12月27日)。

【3】 第2次長州征伐

長州は幕府に恭順しようとしたが、長州内で意見が分かれて内部闘争となった。
それは、高杉晋作の物語として面白いのだが、ここでは、幕府側から見ているので別の機会にする。
長州藩が毛利大全親子の引き渡しを拒否するなど恭順の意を示さない。

長州側は、内部クーデター後、幕府への対決を明確にしている(慶応元年3月)。再度、幕府側は長州征伐を行うことにした。
そして、今回の資料にあるように慶応元年5月16日に、将軍家茂(いえもち)は、自ら長州征伐に出発したのである。
そして、将軍は、生きて江戸の地は二度と踏めない運命となった。この間、一ツ橋慶喜はずっと京、大阪に滞在中である。

【4】 延岡藩資料

(1) 将軍出発前日の触れ書き

将軍の長州征伐への出軍は分かっていたので、いろいろな御触れが延岡藩にも届いている。
そして、慶応元年5月15日(将軍出発の前日)に、延岡藩に大目付から、明日の将軍の出発のお見送りの命令が届いた。

指示の部分は、黄色で囲われた部分である。

概訳は、

「 明16日 御進発。 御発途 お供揃い 5時(現時刻8時)。
  それで、6時(現6時)より、通御。終了するまで、煙笛。
  火の元 別にて、入念 大切に致し候。」


江戸時代の時刻は分かりにくい。将軍は、明朝(現時刻)8時に出発する。「煙笛 」というのは具体的にはどういうものか不明。

【2】将軍出発当日

概訳は、

「 5月16日、公方様 今朝 5時(現時刻8時)にお供揃いにて、 御進発につき、
  御触れの通り 殿様、今暁 七半時(現時刻5時)に お供揃いにて、西丸に御登城。

  御発途の時には、御玄関、御門外、二重橋外面にて、お目見、お見送りをした。
  それが済んで、(西の丸の)帝鑑の間に行った。 御発途が済んだ御祝いの為、
  御大老様、御老中様に お会いして、御口上をのべて、9時(昼12時)に御帰りになった」


延岡藩の殿様政挙は、将軍のお見送りに朝5時に登城し、朝八時の将軍の出発を見送ったのである。
政挙も、お供揃いなので家来と一緒か、あるいは、殿様だけが二重橋の前でお見送りをしたのか。

別の資料によれば、 
  家康が関ヶ原の戦いへの進発(出陣)の例にならって、
  金扇と銀の三日月の馬標(うまじるし)が輝かしく押し立てられている。
  そして、酒井家から葵の葉をしいた勝栗を献上する。
  馬上の将軍は、葵紋の陣笠、錦の陣羽織と小袴を身に着けている。

  前後左右を騎馬の護衛が固めている。
  馬に引かれた大砲を先頭に、新式の歩兵隊がゲベール銃を肩に、一世に打ち鳴らす太鼓に合わせて、足並みをそろえて行進する。
  その後ろに旗本が、晴れやかな姿で続く。国持ち大名は、玄関まで、外様、譜代大名は二重橋の外まで出て進発を見送る。


江戸の市民も大勢が、見物をしていた。壮麗な出陣式であった。

<用語の説明>
  公方様=将軍のことである。ここでは、将軍家茂である。延岡藩の記録では、殿様は政挙である。
  御進発=軍の出陣
  御発途=出発
  御見立=お見送り

【5】 その後

@ 将軍は、慶応元年5月16日に江戸を発って、陸路を35日もかかって、閏5月22日に入京している。
  当時は汽船で行くこともかのうであったのに、徒歩で進軍したのである。翌23日に二条城で幕閣、一ツ橋慶喜、会津藩、桑野藩と協議している。
  朝廷からは、しばらくは大阪城に滞在し、長州征伐は衆議一致するまで待つようにという指示である。
  大阪に到着し、そしてすぐに朝廷に参上した。

  翌年慶応2年6月7日、大島口で戦端を開いた。将軍は、慶応2年7月20日に亡くなった。その間、江戸へ帰ることはなかった。

A 延岡藩は、5月16日に将軍を見送って、20日後の閏5月5日江戸を発っている。
  第2次長州征伐に関して、延岡藩の動きを中心に、今後のレポートで詳しく述べる。

【6】 資料

1) 万覚帳 慶応元年:1-7-153
2) 野口武彦著 「長州戦争」 (中央新書 2006)




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