大名の正月の儀式を見ます 

    

No.26> 大名の正月の儀式:江戸城内と延岡藩邸 

日本では正月は最も儀式ばった日です。
  特に礼儀の厳しい大名家ではどのような正月のすごしかたでしょうか。

今回のトピックス


  正月が近づいています。

  正月だけは、日本人に戻る気がします。そのように正月は特別な日でしょう。
  大名と将軍、大名と家来の関係は、江戸時代初期の関係をそのまま固めたようなある種の遺物のような関係です。
  正月は、彼らにとって、その関係を最も意識する儀式なのです。

  その大名家の正月の様子を、延岡藩の記録で紹介しましょう。

                                                 (2014年12月23日)


【1】大名の正月

  正月も近いので、大名家の正月はどういう過ごし方なのか気になりませんか。


  内藤家の江戸屋敷の正月の1日を見てみよう。慶応元年正月(=元治2年=乙丑=1865年)の日記を見る。
  江戸時代が終わる3年前のことであるが、まだ、危機感は感じられず、細かい儀礼に従っているのがわかる。

  しかし、この翌年から特に政治の急展開が始まので、いわば、嵐の前の静かな最後の年のことである。
  この時の殿様は、最後の殿様である8代目政挙(まさたか)公(当時14歳)である。

【2】殿様が起床すると

大意を示す。

  元治2乙丑年(=慶応元年=1865年)
    正月朔日

                   月番  渡辺平兵衛


1.殿様 今暁、7時(現在の朝4時)に御目覚め。 
   お湯とお榊を添え、御嘉例のように、御高盛 を差し上げた。 

  御引替えされて、 朝(食)として、 御膳に1汁1菜を差し上げた。

  但し、御添えとして、御膳に2汁5菜を。その他にをつけました。
  右の通り


 殿様が、元旦に、現時刻で朝4時に起床されると、真っ先に、(大明神様に)お湯とお榊をお供えをする。
 朝4時は真っ暗である。それが重要な儀式なのであろう

 それから、殿様の朝食が始まる訳だが、まずは、(家来が)1汁1菜の御膳を差し上げる。それは形式だけなのであろう。
 その他に御膳2汁5菜も用意されている。その他に、御魚も付いている。

【3】殿様が(江戸城に)登城する

大意を示す。

「1.藩(の儀式に従って)の年頭の御祝儀の大役をなさった後(先の儀式のこと)、現在の時刻で朝6時に、江戸城へ登城する。」

   (注>何日か前に、今回の登城の際の服装などの指定が来ているので、その指示に従い登城する。)

   「(注意書)但し、御用席で熨斗(のし)の効いた麻の上下を着用のこと。御見立をちゃんとした。

 御太刀目録を御持参で、大広間で、御一同、御礼を仰せ出でられた。
 その後、(将軍の)御前に罷り出て、(お酒の)御流れを御頂戴した。
 それが済んで、9時ごろ(現在の正午)に上屋敷に御帰りになった。


 (但し書き)御太刀目録は、成瀬老之進が持参し、(奏者番に)相渡しました。」


 殿様は、江戸城に麻の裃をきて登城している。江戸城内では、座布団もない、暖はどれほどとれたかどうか。相当寒い状況であろう。
 江戸城内では、1国1城の主もつらいのである。

 大勢の大名が登城し、将軍へ挨拶を行い、御流れの盃を頂いて儀式は終了である。朝6時に登城して、正午に帰ってくるのである。かなり長い時間である。

【4】殿様が御屋敷に帰ってくると

大意を示す。

 「御帰座後、年頭の御礼を為され、請いに付、諸向(もろむき)(羊歯のこと)を四半時 揃えました。

   (但し書き)天保4巳年からのしきたりで、(殿は)ご退出された上で、御礼はなされた。
 居間の御書院に、熨斗の効いた着物で御着座され、年頭の御礼を為され、

 請いは左の通り(以下の通り)に行った。」

 正午に帰ってきて、昼食のことは書いていない。江戸城に弁当を持って行ったのかもしれない。
 虎の門の上屋敷に帰ってきて、殿様には、家内の儀式が待っている。諸向(シダ)を御備えしているが、どこに備えたのかは不明である。
 多分、御書院なのか。

 これから、家来たちとの儀式が始まる。それは、江戸城内の大名と将軍の関係と、全く同じである。封建時代の契り儀式といえる。
 家来が、殿様に、献上品をもってくるが、その内容も、対将軍と同じである。「干鯛」は将軍に送らないが。

 内藤家の別の資料では、「年始の御観式 御家中の面々一統の御礼」とこの儀式を表現している。
 殿様が家来にお年玉をあげるのではなく、形骸化しているが、家来が、刀とお金を上納するのである。戦に最も必要なものである。

【5】家来との儀式が始まる

大意を示す。

 「御太刀 1腰 
  御馬代 銀1枚         御家老  穂鷹内蔵進

  右 上物と御太刀目録を 御取次ぎし 披露した。
  壱畳目の、御敷居内に据え置いた。
  御取り合いは、小太郎(が務めた)

  御太刀1腰
  鳥目 百疋           御中老   原小太郎
  右上物 太刀目録の 御取次ぎし 披露した

  御二の間  上より 一畳目の上座に据え置き 
  御取り合いは 内蔵進なのだが、(体調)不快に付き、小太郎(が代役)

  鳥目 百疋            お年寄   長坂平衛門
  右上物 御小姓が 披露し  御二の間 上より、二畳目の中程に 据え置く

  内蔵進 不快に付き 小太郎(代役)
  干鯛 5枚   御用人(以下、家来の氏名が続く) 」 


  家老、中老達の幹部との儀礼は、居間の御書院で行い、畳の目1枚目に献上物をおくが、
  それ以下の家来たちとは、地位に応じて、第2の間、第3の間で応対する。

   家来が、殿様に鳥目(お金)を上げているが、後日、殿様から、家来へ著直接、礼状を出す藩もあるらしいが、延岡藩の資料にはそれは見いだせていない。

【6】言葉の解説

 @御礼:これは、現在の私たちの御礼ではなく、武家の世界は礼に始まり礼に終わるというように儀式でのしきたり全般を指す。
  形がピシッと決まっているのがわかる。

 A天保4年(1833年)に少し儀礼が短純化されたのがわかる。延岡藩の儀式とうたっているものもある。
  他の延岡藩の資料では、儀式によっては、寛政10年に中止になったなどの記述もある。
  それほど、逆に、各しきたりが古くからの決まっていたことを示している。

 B元旦には、江戸城に、現在の朝6時に登城し、将軍に挨拶をして、将軍からお酒の「流れ」を頂いてから帰ってくるのが、正午である。


 C熨斗目 :熨斗袋(のし袋)ではなく、熨斗(「のし」または「うっと」と読む)とは、引き延ばすこと、今風に言えば、アイロンをかける。
  しわの入っていない服装で正月の儀式が行われている

 D刀目録:No-20でも触れたが、延岡藩だけでなく、各藩とも、ご祝儀の時、将軍へ太刀を献上する。といっても、木製の飾り木刀を献上する。
  当日は、木刀そのものではなく、こんなものを差し上げますという目録を献上するのである。
  また、延岡藩内でも、下位のものが、上司に、「太刀目録」を献上しているようである。

 E上屋敷に帰ってきてから、家来との儀式が始まる。
  別の延岡藩の資料では、「年始の御観式」と呼んでいる。
  「」という儀式名と思われる言葉が出てくる。正確には分かりませんが、どうも、家来からの上納の儀式のようです。
  家来はその地位に応じて、殿様に献上するのである。家老は、「太刀1腰」(この単位に注目)と「馬代」として銀1枚を献上している。

  中老は、太刀1腰と鳥目百疋を献上している。「鳥目」とは、祝儀の時にのみに使用するお金の意味であり、「疋(ひき)」は金の額を示す。
  鳥目100疋は、銭1000文(現代での約2万円ほど)である。さほど高額ではない。昔からのしきたりなので額が問題ではない
  「鳥目」は「鳥肉」と似た崩し字であるが、意味はまったく異なる。注意が必要である。

  さらに、地位が下がってくると、地位に応じた枚数の「干鯛」(ヒダイとよむ)を献上する。献上品を「 上物」とよんでいるようだ。

  その献上品は、二之間、三之間で、地位に応じて、「畳目」という畳の枚数で指定された位置がある。
  ここでは、示していないが、その年の年男も「干鯛」1枚を献上しているが、敷居の外に置いている。
  地位に応じて、上座の受けては、殿から家老等に順次変わっていく。

 F殿様の元旦の食事も面白い。形式は、「一汁一菜」なのである。

 G干鯛(ひだい):武家の祝儀で、贈答品として不可欠である。正月には、親戚等への訪問をするがその時も、干鯛を持参している。
  正月に、大殿様(先代の殿様)から充真院(先先代の殿様の正妻で先代殿様の姉)へ干鯛を1枚献上し、
  逆に、充真院から大殿様にも同数の干鯛が送られている。

【7】 この後の儀式

 殿様は、翌2日も朝6時に登城している。献上品は1日に持って行っているので、この日は手ぶらである。

 2日は、外様大名が主に登城するはずであるが、この日も登城している。
 帰宅時間は不明であるが、帰ってくるとすぐに、大事な親戚へ年頭のあいさつに廻っている。
 また、留守居も手分けして、大事な家廻りををしている。2日にも、より下位の家来の挨拶をしかるべき上司が受けているが、部屋など厳しく決まっている。

 3日は、朝5時(現在の朝8時)に、種々のお寺周りをしている。留守居が、御備物、御進物をもっていく。
 お寺から、白銀一枚、御太刀目録、御馬代銀10枚が献上されている。寺に御香典300疋を贈っている。
 それから、六本木の屋敷に大殿様へ年始に伺っている。

 4日になって、殿様の出身家である太田家(駒込)に年始に行っている。
 正月は礼を尽くさなければならないので、殿様も家来も儀式がたくさんあって、大変である。
 現代人も30年ほど前は、それなりに儀式の名残があったが、最近は、ほとんどなくなった感がある。

【8】資料

内藤家資料:1-6万覚帳-153(慶応元年正月)



このページの先頭に戻る→ 

メインページへ戻る

 このレポートへの御意見をお聞かせ下さい。
    内容に反映させたいと思います。

    また、御了解を頂けたら、
     御意見のコーナーを作りたいと思います。

     どのレポートについての御意見なのか一筆の上、
   メールはこちらから御願いします。

  e-mail : ここをクリックして下さい
      




   inserted by FC2 system