辻番所の請負が延岡藩に値上げを要請してきた 

No.25> 辻番所と請負と延岡藩 

    延岡藩は幕府から禁止されている民間への請負をしていた。値上げ交渉も弱気になる。

今回のトピックス

  江戸時代の治安関係、消防関係にも関心があるので、延岡藩の資料から、前回の火付盗賊改や
  今回の辻番を調べている。

  江戸の町の治安は、武家方は「辻番所」であり、町方は「自身番」が担っていた。
  その中で、延岡藩の上屋敷の隣にある「三年坂」の辻番を、延岡藩は近所の大名家と組合で担当しているが、
  実際は、民間の請負業者に丸投げしているようだ。

  延岡藩の対処法と、辻番や自身番についても言及したい。

                                               (2014年11月25日)


【1】江戸市中の警察:番屋

犯人を捕まえるという仕事と安全を確保する仕事は、現在の警察の仕事であるが、
江戸時代に、犯罪を未然に防ぎ市中の安全を確保するという目的で、番所がおかれた。
現在の交番の元祖である。番所には、大きく2種類がある。広く木戸番をいれると3種類に分かれる

武家屋敷の辻の安全を確保する辻番所と町人の町内の安全と行政出張所であるのが、自身番である。
似たものに木戸番があるが、自身番と木戸番は混同してはいけない
まとめると右のようになる。

(1)木戸番

木戸番とは、町内の各所に木戸という門があり、中央に2間半の大木戸と、両脇に1対の「くぐり戸」をもつ構造である。
夜の4つ(10時)に門を閉め、それ以降で用事のあるものは、拍子木をうって、門番である「番太郎」にあけてもらう。

怪しいものがいたら、拍子木をうって、次の木戸番へ申し送りをするのである。
また、何か事件が起きた時は、木戸を一斉に閉めた。

幕末時代に日本を探索して写真や訪問記を表しているアンペールは、この木戸の多さにびっくりしている。

(2)自身番

 
図1)自身番と木戸 図2)熈代勝覧に描かれている自身番と木戸

各町にあって、大道に面していた。その広さは9尺2間と定められ、本来は地主が詰め、町の事務を行っていた。
地主が毎日詰めるのも大変なので、雇われ家主(あるいは大家)が代理していた。

このほか、書役(かきやく)が詰め、3年ごとに提出する人口統計、町入用費の割付の計算、
人別帳の整備、奉行所からの書類の受付け、町触れの筆写など
、町内事務を処理していた。

また、江戸町奉行から何かの達しがあれば、町年寄を経て、名主から自身番に通達し、そのお達しを、自身番の横の掲示板に張り紙をして、町人に通知していた。

自身番には、消防用の纏・ 提灯・鳶口や、 防犯上の突棒(つくぼう)・刺又(さしまた)・袖搦み(がらみ)などを常備した。

屋根には半鐘のある火の見梯子を供えた。 この建物は、捕り物の映画やテレビで見かける、片方に「自身番」、他方に「何々町」と書いた腰障子がはめてある。
表の柱に、短冊形の行燈、これにも「自身番」、反対側に「何々町」と書いてある。幕末には千カ所を数えた。

八丁堀の旦那(同心)が立ち寄る場所でもある。

図1に自身番とその横の木戸が描かれている。「自身番」と書かれた短冊形行燈や梯子と半鐘も見える。
日本橋付近を描いた熈代勝覧(文化2年1805年頃)に自身番も描かれている(上記図2)。

【2】辻番所

武家地に番所である辻番所(辻番と略することもある)が出来たのは寛永六年(1629)三月からのようであるが、この時は一部で、
正保二年(1645)に、正式に辻番の設置が命ぜられている。 辻番は、右図の様なオープンの小さな小屋である。

辻番がおかれた理由は、
「濫りに、往還の路人を刃傷するもの多し。よって、番所を置いて守らしむ」
ということで、辻切りの防止であった。

辻切に対しては、
「人を斬った者があれば、其屋敷の者が出合い、どこまでも追掛けて留置き、刀・脇差を取上げ,
子細を尋ね、奉行所に報告すること。もし刀・脇差を差出さず格闘するならば、打殺しても差支えない。

また右(前記)の者を追掛けるときには、その先々の屋敷からも必ず出合い留置くこと。」

という幕府からの達し(命令)が出ている。


武家屋敷におかれた辻番には、いわゆる公儀(幕府)の指示で建てた「公儀辻番」
1家で辻番を負担する「一手持辻番」
数家が協力して負担する「組合辻番」がある。

各負担者の表高を所持屋敷で割って算出した「辻番高」に基づき負担を応分した。
組合辻番の内、万石以上之者には、各家が交代で、
既定の日数を務める「日割組合辻番」があった。

火付盗賊改が強化され、治安維持体制が整うと、享保6年(1722)8月に公儀辻番の大半が廃止された。

江戸時代の地図である「切絵図」には、辻番の位置も示してあり、
例えば、大名屋敷の立ち並ぶ霞ヶ関の霞が関坂の途中にもある。

地図の@の場所に相当する。その位置に相当する場所にたつ辻番が当時の浮世絵に書き込まれている。
   (図6の中央の坂の上りきった位置で、道路に張り出す右側の赤い建物)。

辻番が明確に描かれている例として、図7に別の浮世絵「江戸勝景 芝新銭座之図」(歌川広重) 
   (天保6年から9年(1832〜1838)頃国立国会図書館デジタル化資料:)も紹介しよう。

描かれた大名屋敷は、現在の汐留付近から浜離宮までの辺りにあった会津藩(松平肥後守)22万石の中屋敷である。
右の奥方に見える赤い家が辻番である。

 
    図6)霞が関坂の辻番所(中央坂の右奥の赤い家) 図7)会津藩(松平肥後守)の中屋敷前の辻番所(赤い家)   

(1)辻番の任務

万治2年(1659)3月に定められた「辻番所条目」には、

1.辻番は、昼二人、夜四人ずつで怠りなく勤めること。歩くことの出来ぬ者、大老、身体障害の者を辻番にしてはならない。
   夜廻りの役人の申付けに背いてはならない。

1. 夜中に一時(2時間)に一度ずつ町中を廻ること。もし立留つている者があれば、取調べて追払うこと。
   怪しい者は、先々の辻番所まで送り届けること。どこに火事が発生しても、早々に町中に知らせること。

1、 狼藉者で前方から声を立てて追掛けてきたら、早速立出てこれを捕えること。

1、辻番所へ番の者のほか、男女によらず一切差置かないこと。また、番所で博奕することを禁ずる。

番所には指又(さすまた)、突棒(つくぼう)、捩俸(もじりぼう)、松明、提燈、早縄(はやなわ)などが備えられていた。

勤務は昼夜交代制で、番所の戸は夜間も閉めず、受特区域を2時間に1回、巡回した。
番所には指又(さすまた)、突棒(つくぼう)、捩俸(もじりぼう)、松明、提燈、早縄(はやなわ)などが備えられていた。

(2)請負化

各大名家、旗本などが番人を出し合うというのは面倒で、直ぐに、民間でそれを請け負うところが出てきて、18世紀初頭には、それが常態化していた。
警察を今でいう、ガードマンに任せた形の民営化である。公儀は組合辻番の「請負」化の廃止を何度が企てているが、なかなか徹底できなかった。

結局、大名等は、その番人を外部からの雇い入れ、形式的に自分の家のものとする(直抱)などの手で対処した。
ところが、請負にゆだねると安全管理の意味では質の低下は著しく、時には、足腰の立たない老人や病人から、
はては無宿人など犯罪者もどきまでが、番人と称して泊まり込むようになった。

治安維持のため、幕府は、何度も規制を厳しくするがほとんど実効性はなかったようだ。
今回紹介する延岡藩の資料では、この請負からの御手当て増額の要請が示されている。

(3)幕末時の辻番

安政6(1859)年3月には、桜田門外の変が起き、そして、6月には、ロシア人が襲われ松平越中守の辻番所に逃げ込むなど、特に治安が悪くなっていく。
  先手組(幕府の軍隊)に昼夜廻りを命じ、また、辻番所には、壮健のものを選んで定人数を配置するように申し渡した。

文久3年(1863)には、大名達も配下を昼夜巡回させるようになる。
  また、大名たちに、「非常時のため御警衛、御固め」が命じられ、番所に対しては、「戦国の士風に帰り、奮発せよ」と江戸市中の巡回が開始される。
  万石以上の大名には、「番人は壮健のものを置くこと」が命じられる。

元治元年(1864)10月 : 万石以上・以下の組合辻番に次のような趣旨の御触れが出された。


  これまでは、組合辻番はどれも請負に任せ放しで、臨時に雇用した人間を置いており、有名無実になっていた。
  今後は、そのようなことはやめ、実務に専心し、ごまかしをしないように。


慶応元年(1865)5月: 第二次長州征伐の留守中、辻番人の増員が命じられている。今回の延岡藩の資料にその点が触れられている
慶応2年(1866)6月: 慶応の軍役改正によって、番方が解体され、遊撃隊の様な新軍隊が創設される。

慶応3年(1867): 大政奉還後、町奉行所付属兵。12月、外堀の防備のため各橋に仮番所の設置。いくつかの辻番所に増番人が命じられた、
慶応4年(1868=明治元年): 町兵の設置が計画されたが、7月に町方の木戸番撤去、

明治2年 : 一時期、辻番の再開がなされたが、警察による交番が普及にするにつれ消えていった。

【3】三年坂の辻番所:延岡藩の資料

延岡藩も組合辻番を担当している。延岡藩上屋敷(現在の虎の門近く=当報告のNo1とNo2参照)の裏手に相当する三年坂の途中、
先の地図のAで示される位置に辻番があった。その辻番のやりくりの様子が、延岡藩の資料に見えるので紹介する。

三年坂は、先の霞が関坂潮見坂を並んで、霞が関の3大坂であり、今も。官庁街に残る坂である。

この資料は、慶応元年5月12日の延岡藩の江戸日誌である。

 

大義は
1)慶応元年(1865年)5月12日

  (1行目は、「大殿様、今朝5時に、三田の大中寺をご参詣なされた」)

1.三年坂の 日割り辻番を 御請負している 濱松屋紋八(山城町梅次郎店)が
  後見する 植次郎儀 が大目付まで 願書 をもって、御願に来た。

  「三年坂 日割り御組合い辻番人について 米数 並びに 諸色(いろいろ)が
  高料なので、昨年=子年(1864年)の 五月中に 御年米 御増請を
  願い上げたところ、その通りに 頂戴することができました。

  御蔭様で、 引き続き、お互い 助けあいながらやって来ました。 
  ありがたいことです。

  しかしながら、
  またの新な御命令の件について、当節は、いろいろなものが
  引き続き、ますます高値につき、急遽 御手当てが目減りしてきたことは間違いありません。
  なにとぞ、かわいそうと思って、昨年の通り、今年も、御手当てを 御増金をお願い申し上げます。」

1、 麻布抱の、御組合辻番所の御請負である 右同人の件について、
  右同所(御目付)まで 同行し、 願書をもって、右同様にお願した。
  右の通り申し遣ると、勝手方から、値上げの件は、仕方がない、来年の寅年(1866年)5月まで、
  昨年の通り御手当てを遣ると  委細願書の通りになった。

1.御留守が、当地に遣ってきて、幕府の指令をつげた。
  万石以上の面々、交替寄合ならびに 諸番頭の布衣以上
  御役人、中奥、御小姓、三千石以上の 寄合中 
  御番組頭は、四時に 麻の裃を着用の上、西丸 に  登城のこと。

  それで出席したところ、大目付より御廻状
  御同席触れをもって伝達があった。

   (1.小太郎 不快 出席 此れ無し)」


この記録は延岡藩が辻番を請負に出して、請負人から値段交渉を受けたという話である。
この時期に、請負はそのまま残っていることがわかる。

この中で、濱松屋紋八という請負人の名前が見えるが、彼は、幕末の代表的な辻番の請負業者の一人である。
山城町梅次郎店という屋号をなのり、資料によれば、新橋、神田橋、下谷あたりを主な縄張りとしてしるようだが、
虎の門でも担当していたのであろう。

延岡藩の上屋敷(虎の門)の北隣に三年坂があり(今も文部省の隣に残っている)、
そこに辻番があって延岡藩も担当していた。先の地図のAの位置である。

次の話は、辻番関係ではなく、この数日後の将軍出陣に関するお達しであろうが、内容は不明であるが、
大名家以外の旗本高官にも江戸城への呼び出しが来ている。

また、日記には。大殿様と小太郎という名前が出てくる。大殿様とは、先代の殿様(政義)のことであり、
小太郎とは、家老の原小太郎のことで、これからのレポートに頻繁に出てくるだろう。

【4】旗本の格について

大名に対しては、万石以上(1万石以上)の面々と簡単であるが、旗本に関しては、いくつかの格の制限をして、登城を命じている。
旗本のいろいろな格について少し説明が必要である。

(1) 格

将軍直属の家来を旗本御家人というが、簡単に言うと「将軍にお目見えできる」のが旗本、「お目見えできない(御目見以下)」が御家人である。

その旗本も、「布衣(ほい)以上」と「布衣以下」がある。布衣というのは、もともとは無紋の狩衣のことで、
式日にその着用を許されるもののことを指し、旗本の立身の証しとされていた。

旗本の中で、3000石以上の上級旗本と布衣以上の家格の旗本を旗本寄合席(単に寄合)という。

彼らを含めて旗本は、本来は、江戸在府であり、若年寄り支配である。
ところが、これら以外の旗本の家格には、高家、小普請組があるが、これらは老中支配である。

また、旗本寄合席に含まれる交代(交替)寄合というものも老中支配である。
この交替旗本は、領地に所在しており、参勤交代を行う寄合という意味で、大名に次ぐ格である。

(2)御小姓

将軍の周りにあって世話、護衛をするものである

(3)中奥(なかおく)

江戸城本丸は、幕府の業務をつかさどる「表」、将軍が起居し政務をとる区域の「中奥」と、将軍の私邸である「大奥」に分けられる。
今回の資料で、「中奥」というのは、この中奥に出仕する旗本を指すのであろう。

(4) 幕府からの指令の伝達=廻状と同席触

大名等の控室に指令の写しが渡されるのが、「同席触」、大名への通常の伝達法である「廻状」は、伝達経路が決まっており、
受け取った家では、その文面を写し取り、読んだことを書き記して次の家へ回すものである。

【5】資料

1)延岡藩資料1-7-153 万覚帳



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