桂小五郎 

No.23> 桂小五郎 

   延岡藩の資料に見る桂小五郎。敵方である延岡藩にも響く桂小五郎の名声。

今回のトピックス

  桂小五郎は、明治維新における長州藩の最高の志士である。西郷隆盛、大久保利通と一緒に維新の3傑と呼ばれた。
  ところが、明治10年に病死している。一方、西郷隆盛は西南の役、大久保は暗殺という非業の死を遂げたため、
  最後の印象の差で、今一つ印象の弱さがあるが、維新に示した存在感は、西郷、大久保に決して引けを取らない。

  西郷の人間的魅力と、大久保の事務処理能力の両方を備えた人物なのである。

  そのような印象を延岡藩に残る桂小五郎のうわさからご紹介したい。  (2014.8.24)


【1】 桂小五郎 という魅力ある人物

西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎(=木戸孝允維新3傑という。確かに、幕末に現れた英雄の中でも、この3人は抜きんでている。

彼らがいなければ日本の近代史はどうなっていたかと思うほどである。その中で、桂小五郎は、今となっては影が薄いような気がする。

それは、他の2人が非業の死を遂げたことと無縁ではあるまい。長州藩と薩摩藩から、4人ではなく3人というのが、私には、桂小五郎の人となりを表しているような気がする。つまり、人を率いるという人間的魅力で、西郷隆盛に匹敵し、行政能力という意味で、大久保利通に匹敵する。

つまり桂小五郎は、他の2人に対して、1人で匹敵するほどの魅力と能力のある人物なのである。

延岡藩の資料に桂小五郎に関する記述を見つけたので、今回紹介したい。
延岡藩という、長州藩から見て、対抗勢力側から見た桂小五郎という人物評が出ているのである。敵陣にも、長州藩に桂小五郎ありと名をとどろかせていたことがわかる。

木戸孝允は、明治10年5月に脳溢血が原因で死去し(享年44歳)、同年9月に、西郷隆盛が、西南の役で無念の自害をし(享年49歳)、
大久保利通は、翌年(明治11年)5月に暗殺されている(享年47歳)。
この逸材3人は、ほとんど、同じ年に亡くなったのである。この3人に共通するのは、自分に厳しい人で私利私欲の人でなかったことだ。

この人たちが、もっと長生きしていれば、この国はもう少しましな国になったのではないか。

【2】 記事の背景となる歴史

今回の記事は、慶応元年に延岡藩の京都か大阪詰めの人物が、延岡のやはり情報担当の人物へ京の様子を報告したものである。

慶応元年(1866年)はどういう年だったか?
この年の2年前 文久3年(1863)、藩として最も尊王攘夷の姿勢の強かった長州藩に対し、薩摩と会津の公武合体派が、8月18日にクーデターを起こし、
長州藩を京都から追い出した(8・18政変)。これにより、尊王攘夷派の三条実美ら七卿が、都落ちして長州藩の庇護下に入ることになった。

翌年の元治元年7月、長州藩の過激な尊王攘夷派(久坂玄瑞や、桂小五郎)が、御所に押しかけようとして、御所前で警護に当たっていた会津藩や駆け付けた薩摩藩と戦い、
結局、長州藩が敗走した。(蛤御門の変、禁門の変)。久坂は自刃し、桂小五郎は逃げたが、指名手配となり、姿を隠した。

これで、長州藩は朝敵となり、「長州、討つべし」という朝廷からの命令がでて、幕府は、長州攻撃に出陣した。第一次長州征伐である(元治元年=1865年)。
戦争らしい戦争はなく、長州藩が、詫びを入れる形でいったんは終了した。しかし、毛利藩主親子への懲罰など長州藩への要求に対し、
主犯格の3家老の首を差し出した以外は、幕府からの催促も、長州藩は引き伸ばしで対応していた。

その頃、長州藩内では、幕府への恭順派(保守派)と抗戦派(正義派)の抗争があり、紆余曲折の結果、高杉晋作のクーデターで、抗戦派が勝って、
長州藩の姿勢が固まったころである(慶応元年1月ころ)。長州藩の姿勢に、業を煮やした幕府は、第2次長州征伐を決定し、諸藩へその旨を告げた。

戦闘が始まったのは、1年後の慶応2年6月であった。その間、将軍は、大阪にいたのである。開戦から、1月後に7月20日に将軍家茂が21歳の若さで死去してしまった。

交戦中も、裏では幕府側と長州側の交渉は行われていた。幕府側は、老中の小笠原長行(唐津藩)であり、長州側は、家老の宍戸備後助であった。

余談であるが、この小笠原長行という人物は、波乱万丈で、それでいて漫画のようなうそみたいな生き方をしている。是非、調べてみると面白い人物である。
今回の、その頃、芸州口に集合したのである。

次に、桂小五郎の歴史と日本の歴史を表す年表を示す。


【3】 延岡藩の記録に見る桂小五郎の噂

延岡藩のいろいろな人が、ことあるごとに、京都での噂、情報を延岡に送っている。今回のものも、その情報提供の一つである。
手紙文は12月22日発の期日はあるが、年号が書いていない。しかし、内容からすると、慶応元年の3つの話題からなることがわかる。

この手紙は、内藤四分生(新のことであろう)から、準家老格の今西弥学と情報担当と思われる 長坂平左衛門(良造のことであろう)へあてた手紙である。

今回は、3つの話題中、桂小五郎に関する報告であるその最初の話題を特に紹介する。



前半部分だけを改めて拡大する。



概訳は

「蒙絡(つるが絡まっている様子)の様な報告をします。それで、副冊の探索状を廻しました。

長州藩の桂小五郎は、元は、過激な家来の様に見られていたが、藩主 毛利大膳父子も、はじめて、手に余り、抑えられず、(家老の)備後助も心痛めることがおきて、桂小五郎を帰国させることができた。

気備えは、薩摩を一番に考えている様子だ(組む相手として薩摩を一番に考えているようだ)。しかも、土州(土佐藩)と薩州(薩摩藩)が、幕府側の前線から去り、
奇兵隊の連中は、非常に喜び、ある者は、酒屋へ行き、ある者は、わがままに振舞っているようだ」


桂小五郎が亡命先の鳥取から帰国して、長州藩士たちが大喜びし、しかも、土佐藩と薩摩藩が、幕府側から距離をとったため、長州藩では、勝ったも同然と喜んだ様子である。

激従とは、過激派のことか。
桂小五郎は、蛤御門の変で、指名手配となり、芸者の幾松と逃避行をしたのである。しかし、彼は、長州藩で、絶対の尊敬を受ける人物であった。

彼が、長州藩に帰ってきた時(慶応元年4月末)、どのくらい皆が喜んだか、伊藤博文が書き残している。
「山口をはじめ長州では大旱(ひどいひでり)に雲霓(雨の前触れである雲や虹)を望むごときありさまだった」と語っている。

ここで、備後助は、長州藩側の交渉人である家老の宍戸備後助のことである。幕府側の交渉人は、第2話に触れてある老中小笠原長行(唐津藩の世子:藩主ではない)である。
また、第二次長州征伐の頃、薩長連合が成立して(慶応2年1月)、薩摩は参加しないという形で、反幕府側となっているし、土佐藩は、大阪の守備固めという形で直接の長州藩攻撃から退いている。

この手紙で、桂小五郎が薩摩と通じているようだという内容がある。正式な薩長連合の成立する1月ほど前の情報である。なかなかの情報収集能力といえる。

【4】老中小笠原長行のエピソード

第2話に小笠原(長行)が大阪に来て、老中となった(慶応元年9月)。そのことは、会津藩も桑名藩も知らなかった。ずうっと関西にいた一橋公も知らなかったことだ。
わざわざ、小笠原(長行)のことを触れているのは、彼は、2年前、将軍家茂と一橋慶喜が、京都にいたときに、将軍たちの許可なしに、江戸から1500名ほどの兵を率いて上京してきて、将軍があわてて、入京を阻止したことがあった。
それで、彼は、老中を解任されたのである。それなのに、また、彼が復帰したのであるからびっくりしているのである。

【5】 明治になって桂小五郎

小さな藩単位では、世界に伍していける国つくりはできない。彼の念頭には、中央集権国家の建設があった。そのために、版籍奉還をし、最後の仕上げが、廃藩置県であった。
この廃藩置県が最も難しい作業であったと思うが,諸藩の反対は、ほとんどなくあっけないほどであった。この廃藩置県で初めて明治維新というクーデターは完成した。
徳川の時代の終わりより、こっちの方がより大きな変革であったと思う。近代日本の礎は、この時にできたのである。

この廃藩置県の最大の功労者は、先の維新の3傑であった。桂小五郎は、中央の改革者=権力者が薩長だけに偏らないように腐心した人物でもあった。
小五郎は、明治8年脳内出血で、病床につき、明治10年、西郷隆盛の西南の役を嘆きながらこの世を去った。享年44歳であった。

【6】 資料

1) 内藤家資料=3-20-118:



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