延岡藩江戸藩邸日誌: 登城編(4)

No.22> 延岡藩江戸藩邸日誌: 登城編(4) 

    第8代藩主政挙の代代わりの直前の参勤交代と江戸城への登城

       若殿様(政挙)のデビュー前に、坊主へ付け届け

今回のトピックス

  文久2年(1862年)、延岡藩最後の殿様である政挙が10月に藩主に付き、江戸城にお目見えする予定の2月ほど前の
  8月の事である。

  江戸城内の諸雑用から、案内役を担当する坊主への根回しをしておかねば、10歳の若殿様が、失態を演ずる
  可能性がある。

  そこで、坊主達に、若殿様をよろしく頼むと、お金を包み、挨拶に行っている。貴重な史料である。   (2014.7.31)



【1】御坊主

前回の報告で、殿様が、江戸城の登城義務の八朔の儀を欠席するとき、坊主頭なる人物に取り次ぎを頼んでいる。坊主とは何か?

本丸内での坊主の案内様子 坊主 

江戸城には、本丸、西の丸にも、多くの坊主が詰めていた。将軍の衣装の世話をしたり、将軍が顔を洗うのを準備するのもすべて坊主が行った。
また、城中の雑用をこなす坊主がいた。昔のチャンバラ映画にはよく出ていたが、最近のチャンバラTVでは見たことがない。
そういう存在を製作者が知らないのだろう。本丸にあがる殿様たちの世話をしたり、案内係を勤めるも坊主が行う。

坊主は、もとは、身分は低いながらもれっきとした武士だった。頭は剃髪していて、羽織袴を着用している。図に見るような姿である。

本丸御殿では、諸国の殿様も、一人で行動しなければならないので、下手すると、迷子になったり、入ってはいけないところに入り込む大失態の危険性もある。
坊主だけが頼りとなる。殿様が失敗をしないように、家来としては、坊主への付け届けも忘れてはいけないことである。

また、坊主は、大名同士の密談を知りうる立場でもあるので、強い権力を持ちうるものも出てくる可能性があった。
 「たとへ騙りの名はあっても、お城を勤めるお数寄屋坊主。此(この)河内山は直参だ、高が国主であろうが大名風情に裁許(さいきょ)をうける謂(いわ)れはねぇ。」
 と啖呵を切った高知山宗俊が有名である。そのようないかがわしい坊主も出てくる余地はあった。

詳しくは、右図の様な組織のもとに、大きく分けて3種類の坊主があった。

1) 奥坊主

同朋頭(若年寄支配)の配下に茶室を管理し,将軍,大名,諸役人に茶を進めることを職務とする奥坊主組頭(50俵役二人扶持,御目見以下)と
その配下の奥坊主(20俵役扶持二人扶持,御目見以下)100人前後がいた。

2)表坊主

同様に、同朋頭の配下にあって、殿中において大名,諸役人に給事することを職務とする表坊主組頭(40俵二人扶持高、御目見以下),
表坊主(20俵二人扶持高,御目見以下)200人前後があった。
登城した大名などを案内し,弁当,茶などをすすめ,その衣服,刀剣の世話をした。

3)数寄屋坊主

また茶室に関するいっさいのことをつかさどる数寄屋頭(若年寄支配)の配下に,数寄屋坊主組頭(40俵持扶持高,御目見以下),
数寄屋坊主(20俵二人扶持高,御目見以下)が50人ほどいた。さきほどの高知山宗俊は、数寄屋橋坊主の代表である。


今回の話に出てくる坊主は、表坊主である。今回のように、諸藩の大名からの報酬が多く、生活は豪奢であった。
かっては、登城した大名が、坊主部屋で弁当を食べたこともあったそうだが、ある時、大目付達書がでて、弁当は、坊主部屋で取ってはいけないということになった。
大名と御坊主のつながりが強くなると情報の漏えいや、藩同士のつながりができることを幕府が心配したのだろう。

【2】 坊主衆に延岡藩の若殿様のデビュー前の根回しをする

以下に示す記録は文久2年八月である。この時は、7代藩主政義の代であるが、この数ヶ月後の10月に。10歳の政挙が8代目の藩主となる予定である。
早速の登城が控えているので、坊主への根回しが必要なのである。

図4>文久2年8月28日   図5>文久2年8月16日 

図4の文(文久2年8月28日)の大意は、以下のとおりである。

「8月28日(文久2年=1862年)
(注>当報告の江戸日誌(3)の報告の1月ほど後で、8代目が藩主になる2か月前のことである。)

並の御出入り御坊主 関長国、高橋栄値、竹田長傳 に御勝手通り 御繰足し 仰せつけられ候に付き、 金三百疋、下され候に付、
良き様、老之進方に相廻し候。

但し、 若殿様 お目見え お願いの訳合いに付き、御懇意 相増し候こと。

1、 御坊主 鈴木玄宅、 渡辺甫之、岸本玄琢 、中村道勢、 鈴木宗碧、橘田高節に
 この度 新規 並の御出入り に仰せつけられ候に付、 金 二百疋 御下され候に付、同人方に 相廻し候。

  但し右同行」


  並の坊主に一人当たり、300疋(5万円程度)を配り、今回、新規に坊主に選ばれた6人にも、200疋(3万円ほど)を配っている。
これは、あくまでも、10月にお目見えをする若殿様のためにである。

図5の方の文(文久2年8月16日)の大意は、

「八月16日 曇り、昼後 折おり 小雨
1. 御懇意 御坊主 鈴木宗(添)、中村道順 方に平兵衛 罷り越し。

若殿様 お目見えの御会について

彼是、内掛合 致し候
但し、宗添 方には、去る九日 罷り越、内請け致し候こと。」


若殿様の江戸城でのデビューを控え、坊主方にいろいろ気を使っているのがわかる。
坊主方を訪問し、若殿様の事をよろしくお願いし、内諾を得た旨が書いてある

【3】資料

1) 図4、図5の文:延岡藩資料:1-9-22 :万覚書=文久2年



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