延岡藩江戸藩邸日誌: 登城編(3)

No.21> 延岡藩江戸藩邸日誌: 登城編(3) 

   第8代藩主政挙の代代わりの直前の参勤交代と江戸城への登城

今回のトピックス

  今回は、在府の大名の登城義務の日の一つ、八朔の儀(8月1日)への延岡藩の対応を報告します。
  文久2年の場合、殿様の体調が芳しくなく、欠席します。

  そこで、名代として、留守居の家来が長袴を着用の上、登城します。(2014.7.31)


【1】政挙の年表

8代藩主政挙は、右年表のごとく、文久2年(1862)に、10歳で藩主となった。先代正義は、死去したのではなく、
42歳で隠居し、明治21年まで長生きしている。参勤交代は、従来、1年おきに、国元と江戸を交互に住むというもので、
江戸に4月中頃までにつくように国元を出ている。そして国元へ帰る時も、その季節である。

ところが、政挙が,藩主になる年(文久2年)に、参勤交代は少しゆるくなり、3年に1回で、在府期間も100日となった。
しかし、その2年後に、もとに戻したのであるが、その時は、何かと理由をつけて、従わないものが多く出てきた。
延岡藩は譜代大名なので、幕府の指示に従っているように見える。当該の慶応3年には、藩主政挙は、第2次長州征伐に出陣している。
その翌年(慶応4年)は、、正月に鳥羽伏見の戦があり、その時、幕府側についたことから糾弾されたことは、以前に報告した通りである。
もう、参勤交代などするどころではない雰囲気になっていく。政挙は、参勤交代を満足にしていないし、江戸城登城も十分に行ったとはいえない。

それほど慌ただしい時代の最後の殿様なのである。

【2】大名の登城日

右の表のように、およそ月2回の月次御礼(水色で示した)の他、年始、八朔、嘉祥、玄著と参勤交代で上府してきた時の挨拶(以上、赤で示した)と、
五節句(黄色)がある。他に、後の述べる緊急呼び出しがある。1年間に33日も江戸城に行くというのは、楽でもなかったろう。
もちろん、殿様が、国元に帰っている(在邑)時は、殿も、在府の留守居や家老なども登城する必要はない。

【3】八朔(はっさく)御祝

8月1日は、八朔(という御祝いである。朔日とは月初日(ついたち)を意味する。これは、徳川家康が、豊臣秀吉から、関東を与えられ、
江戸入りしたのが天正18年8月1日だったことから、この八朔は、徳川幕府にとって特別の御祝いの日なのであるである。
この八朔の御祝儀に延岡藩がどのようにして臨んでいるかを示そう。

【4】文久2年(1862年)の八朔


大意>
「文久2年(この時はまだ慶応に改元されていないが。慶応元年の年である)戌年。 八月朔日

1. 八朔の御祝儀。昨日 お届けの通り
(殿様が)御不快(体調が悪い)につき、御名代として、(留守居役の)老之進が長袴を着用して、
御太刀目録(より引き合わせ)渡されたものをもって
御城に持参した。大広間で、御老中様方が、ご出席。左の通り 御坊主頭に椰子(?)之間にて、御手札を相渡し候。

大奉書
八切手札は、左図の通りに3枚できた(作った)。その他に例の(通り)八つ切り手札も出来(作った)。





1. 御老中様方、御表に当日の御祝儀
  御不快に付き、御使者 平兵衛 相勤め候

1.  尾州様に当日の御祝儀 平兵衛 相勤め候

1. 大御目付 駒井山城守様に 以来 用事向きの儀 お願い申され候ところ、御承知
につき、ご挨拶のため、干し鯛 三枚 御樽代 三百斤やられ候に付き、老之進 相勤め候。
御用人 広川俊兵衛に同行に付き、金二百斤 下され候に付き、一同、持参し、相達し候。」



(解説)

まだ7代政義の代で、8代に移譲する数ヶ月前のことで、政義が体不調で、江戸城に登城しなければならない八朔の儀に欠席したのである。
前日、欠席する旨を留守居役の成瀬老之進が届けている。

その上で、当日、老之進が長袴を着用の上、代理で、御太刀目録を持参し、本丸の雑用を担当する坊主(次回に詳細報告)に手渡したのである。
通常の代理での登城挨拶は、名代として、留守居の成瀬老之進が行っている。通常は、老之進は、一人ほどの家来をつけて登城し、大手門から入り、
玄関で、主君の欠席届に相当する先の手札を御徒番所か、坊主頭に手渡す。

そして、本丸に上がり、いつも殿様に付いてきた供侍がまつ控室に行く。
ここで、自分の番が来たら、呼び出しがあるので、大広間など(行事によって部屋は異なる)の廊下で順番を待つ。順番が来たら、大広間へ行き、
太刀目録を、担当者(奏者)へ差し出す。ここで、目録の披露が行われる。そこで、老之進は、上段へ向かい、そこには将軍が居るはずであるが、
御簾の中で、将軍は居るかどうかもわからず、深々と挨拶をして(顔を見てはいけない)、廊下へ退室をする。

また、老中達への挨拶、尾州殿への挨拶は、渡辺平兵衛が担当している。

今回は、8月ということで八朔の儀式と、幕末ということに絞ったので、殿様が欠席というのものしかなかったが、今後、いろんな場合を報告する予定である。お楽しみに。

【6】今回の言葉

@ 疋(ひき):

金と銭が別のお金の単位がある。金は、1両=4分、1分=四朱という単位は変わらない。ところが、銭と量の換算が時代によって異なるのである。
1両は、銀150匁、銭4000文。1疋(ひき)=銭10文で、現在の貨幣価値では160円ほどか。300疋を世話してくれた御用人に御礼をしている。
現在貨幣では、5万円ほどになる。リーズナブルか。

A 御太刀目録

   延岡藩だけでなく、各藩とも、ご祝儀の時、将軍へ太刀を献上する。といっても、木製の飾り木刀を献上する。当日は、木刀そのものではなく、
こんなものを差し上げますという目録を献上するのである。殿が出席している場合は、将軍の前で、目録を置く場所も事細かに厳しく決まっている。

将軍へは、各藩からの、ものすごい数の飾木刀の献上品が集まると思うが、それはどうなったのであろうか?献上品は、江戸城へ上がるたびに異なる。
それについては、季節を追って、種々のエピソードを交えて報告していく予定である。

【7】資料

1)延岡藩資料:1-9-22:万覚書=文久2年


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