延岡藩江戸藩邸日誌: 登城編(2)

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    江戸城本丸御殿

今回のトピックス

  今回は、若い藩主が、江戸城本丸御殿に一人で入ります。まずは控室である「帝鑑之間」に落ち着きます。
  大目付、老中、将軍へのあいさつのときの座る位置が描いてある延岡藩の資料を報告します。  (2014.7.3)


【1】 江戸城本丸御殿

江戸城本丸の玄関に到着したら、ここからは、藩主は一人で、入って行かなければいけない。最後の藩主である政挙は10歳そこらである。
無事済ませることができるのであろうか。
 玄関は訪れたものを威圧する様に、黒塗りに金細工が大きく施されていたようだ。(先日のNHKの3Dで再現した江戸城は荘厳で威圧的であった)。

(1)江戸城本丸御殿

                 
図1)一番奥に天守閣は描いてあるが、天守閣は、振袖火事で焼けて以来、再建されていない。 その前にある大奥から最手前の玄関部が本丸御殿である。
中段の図は、本丸御殿の玄関
下段の写真は、屋敷のすぐ横にある数寄屋二重櫓
図2)江戸城本丸御殿の全体図。
書院二重櫓と書院出櫓を背に中雀門をくぐると、本丸御殿の玄関が正面に見えてくる。
最下部が、玄関。最奥部(上方)が、大奥になる。
 

(2)江戸城本丸内の藩主の控室

藩の生い立ち(御三家、譜代、外様)や、藩の規模によって、控室(殿席という)や将軍との謁見部屋等が変わってくる。
殿席は、以下のように、全部で7種類ある。大廊下(松之廊下、上之部屋と下之部屋の区別あり)、溜之間、大広間(二之間と三之間の区別あり)、
帝鑑之間、柳之間、雁之間、菊之間である。延岡藩の格はどうであろうか。一般の江戸の民も容易に知ることができる。

それは、各藩の情報誌武鑑で見ることができる。江戸時代末期の内藤家に関する武鑑の情報を示そう。

この武鑑から、藩主の内藤政挙は、内藤備後守と称し、官位が、右近将監朝散大夫であり、藩主の内藤政挙の控室(=殿席)が帝鑑之間であることがわかる。
また、本江戸藩邸日誌(3)で報告予定の献上品に関しての記述がある。

 年始と八朔(8月1日)は、御太刀銀馬代とある。この献上品については、第3部で触れる予定である。

(3)江戸城本丸内

本丸内の部屋割り図を見てほしい。玄関を入った延岡藩主は、担当の坊主に導かれながら、殿席である「帝鑑之間」につく。
帝鑑之間は、白書院の一角にある。各藩主と将軍との公式の謁見の場は、3種類あり、玄関に近い方から、大広間、白書院、黒書院の3か所ある。
この順で、公式の重要度が決まる。若い殿様にとっては、控室で各藩の藩主との会話も大変であろうが、より大変なのは、老中との謁見、将軍との謁見である。
事前に何度も練習したであろうことは十分に予想できる。

【2】内藤家の資料から

内藤家の資料内に、本丸内の、帝鑑之間と白書院での将軍、老中との謁見時の、座席位置(お目見え者)を示す貴重な資料がある。
藩主が恥をかくことの無いように、また、浅野匠頭と吉良上野介の様なトラブルにならぬようなど、家来たちが、腐心したであろう。

内藤家の資料の中に、将軍等との謁見の部屋、藩主の座り位置などを記述したものが残っている。殿様は、この図を何度も見て、復習をしたであろう。
資料の表紙には、政挙の名前と花押が見える。先にも記した様に、延岡藩最後の藩主である政挙は、文久2年(1862年)10月に10歳で第8代藩主になっている。
江戸城本丸は、文久3年(1863年)12月25日に焼失した後は、再建されていないので、本丸絵図としては、その後、永久に活用されることはなかった。
その意味もあってか、後年研究者の西の丸の書き込みが見えるが、この図は、本丸の絵図である。慶応4年=明治元年(1868年)には幕府が倒れることになるから、江戸城登城そのものすらなくなる運命である。

写真では、わかりにくいので、私の方で、書き直したものを合わせて、載せる。
                         
図4)資料の表紙図5)帝鑑之間(38畳半)図6)白書院
 
                 
図7)白書院之間。
延岡藩の藩主は丸印(御目見)の位置に座る
図8)3つの公式儀式の部屋をアップ。
黄色部分が、左の白書院に相当する
 

(1)大目付のあいさつ

大目付へのあいさつは、桜の間で行っている。赤丸印●が、延岡藩主の座る位置(御目見)である。老中、将軍に対面するのは、
白書院の一番端、御入側という畳は敷いてあるが、縁側に相当する場所である。下段よりさらに低い位置である。
将軍との距離は、11.7mほどになる。

(2)白書院

白書院は、上段(28畳)、下段(24畳)、連歌之間(28畳)、帝鑑之間(38畳半)、小溜(8畳)、入側からなり、合わせて300畳と広い空間である。
その他の黒書院が、総190畳、最も公式性の高い大広間は、上段(28畳)、中段(28畳)、下段(36畳)、二之間(54畳)、
三之間(67畳)、四之間(82畳)と入側からなり、全部で490畳となる。(単純計算で現在表記すると、28m×28m程度の広さとなる)。

また、黒書院と白書院は竹之廊下でつながり、白書院と大広間は、松之廊下でつながっている。
いずれも、廊下といいながら、畳張りで、竹之廊下は、東西4畳×南北16畳の90畳、松之廊下は、東西5畳×南北18畳の計90畳である。
松之廊下は、先の忠臣蔵で有名な、刃傷沙汰のあった場所である。廊下に囲まれた場所は庭になっている。
現在の江戸城跡を見学に行くと、松之廊下の場所だけ、示してある。江戸城というと、誰もが「松之廊下」を思い浮かべるのであろう。

(3)帝鑑之間

大名266家中、柳之間と帝鑑之間で半数となる。
殿席で藩主の格がわかり、将軍との謁見の場も、相関がある。
                 
図9)大名266家の殿席の割合 図10)各儀式での公式部屋と殿席の関係
 

【4】資料

@ 内藤家資料:1-20-403-95=絵図西の丸帝鑑之間
A 江戸城 本丸御殿と幕府政治:深井雅海著(中公新書)
B 江戸城 その全容と歴史:西ヶ谷恭弘著(東京堂出版)

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