江戸上屋敷(1)

No.1> 延岡藩の江戸上屋敷=江戸時代も名所

今回のトピックス

  延岡藩の上屋敷は江戸時代でも名所でしたので、この地の報告は、昔も今も多くあります。
  その中で、今回の私の報告で、新規なところは、上屋敷の正確な形と、延岡藩の上屋敷の配置図を示した点でしょう。

  また、「江戸一目図屏風」の中から、延岡藩上屋敷を拡大して見せたところも初公開ではないでしょうか。

  上屋敷跡は、現在の、文部省付近ですし、堀の石垣が残っています。
  江戸の香りを無理すれば味わうことができる貴重な場所です。是非、散歩してみてください。

  屋敷配置図を、追加しました(2013.9.20)

  幕末時代に写された延岡藩上屋敷の写真を見つけました。追伸で示しております。(2014.10.10)


1) 序

延岡藩の幕末の激動を語るのを、まず、彼らの生活の場である江戸屋敷から始めたい。幕末時には、虎の門にある上屋敷、六本木の下屋敷、そして渋谷屋敷、及び、一時期であるが、本所屋敷があった。延岡藩上屋敷は、江戸時代でも、名所であり、多くの浮世絵の対象となっている。現代でも、江戸の街並みを語る名所の為、既に、本やHPで多く語られており、二番煎じのところもあるが、後の説明のためにも必要であること、また、江戸時代の雰囲気を語るためには、もう少し説明が必要ということもあり、上屋敷から始めることをお許し願いたい。

2) 上屋敷とは

延岡藩の上屋敷を語る前に、上屋敷、下屋敷とは何か? 参勤交代で1年おきに江戸へ上がってくる殿様の生活するところが上屋敷であり、上屋敷、下屋敷、大藩では、中屋敷を有するところもあるが、殿様が江戸城に登城するのに最も近いところが上屋敷である。他に、殿様に御供して江戸にきた家来の住む場所が、主に下屋敷であった。引退した前の殿様の住んでいるところが中屋敷であることが多かったようである。上、中、下屋敷は、各藩の所有物ではなく、徳川幕府から拝領しているものである。各藩では、拝領した屋敷では不足するため、各藩が独自に作った屋敷が抱屋敷(かかえやしき)である。延岡藩では、渋谷屋敷と、一時期の本所屋敷が抱え屋敷である。

延岡の上屋敷は、現在、文部省がある虎之門付近にあった。これは、内藤家が拝領しているものであって、内藤家は、延岡藩に領地替えになる前は、福島磐城平藩であり、その前は、上総佐貫藩3万石であったが、家康が江戸の領主になった時から、面積の大小はあるが、虎の門付近に敷地を拝領している。内藤家に限らず、江戸屋敷は、各国に与えられているのではなく、大名個人に与えられているもので、配置換えになっても江戸屋敷は変わらないのである。

3) 江戸時代地図と現代地図対応

虎之門付近の幕末の地図と、ほぼ同地区の現在の地図と対応させると、内藤能登守の屋敷が、現在の文部省、霞が関ビルあたりに対応していることがわかる。現在の“外堀通り”が、かっての外堀があったところである。外堀の幅は、約38m近くあり、相当の幅であったようだ。

但し、虎の門付近の外堀通りは、実際の濠の形よりは、滑らかなカーブにはなっている。図1が、幕末1858年(安政5年)の絵図である。外堀と溜池に付き出した位置に内藤能登守の屋敷があり、図2にほぼ同位置の現代地図上に内藤家上屋敷を示した。

江戸時代、延岡藩士たちは、この上屋敷を、「三年坂の邸」と親しみをこめて称したそうだ。この上屋敷の北に接して、三年坂があったことに由来するのだが、この坂は、今も、文部省の隣に残っている。昔、延岡藩士が歩いた坂を味わってほしい。又、明治5年に、この付近の地名を「三年町」としたのも、この三年坂に由来する。「三年坂」自体の名前の由来は、この坂で転ぶと、3年以内に死ぬという恐ろしい迷信があったためらしい。歩く時は転ばぬようぬ御注意を(2013.8.22 加筆)

図1)江戸時代の上屋敷付近図2)現在の虎ノ門付近

桜田門から、延岡藩上屋敷に向かう地区は、現在は、いわゆる霞が関といわれる日本の中枢中の中枢である。
警視庁、外務省、農水省、財務省、文部省等々の本省の建物が並んでいる。

後の話のために、ここで、注意すると、現在の警視庁は、大分の杵築藩の屋敷跡であり、国会議事堂から警視庁あたりが、彦根藩(幕末の藩主、井伊直弼が有名)の藩邸跡である。桜田門外の変は彦根藩邸から400m程行った桜田門の前の、杵築藩邸の門前で起きた狼藉事件であった。そして、その事件が起きた場所から、延岡藩邸までは、800m、歩いて10分の距離でしかないのである。次に、図3に、上屋敷のおおよその寸法を示す。

    
 
図3) 上屋敷の寸法図4) 幕府へ提出した正式図面(内藤家資料)

現在の感覚では、この一等地に信じられない大邸宅である。面積は、10,515坪程。大体の目安として、藩の石高に応じて屋敷の面積は決まっていた様である。通常、上屋敷の広さは10万石以上は7000坪以上、5万石以上は5000坪以上、1万石以上は2500坪以上だったが、7万石の延岡藩としては、格以上の大面積であったことがわかる。

1809年(文化6年)に、幕府への屋敷報告の記録が明治大学に残っている(資料1)(図4)。この報告書には、土地の形は詳しく書いてあるが、内部の屋敷は一切描いてない。ところが、抱え屋敷である渋谷屋敷の同年の報告書には、建物の構造も描いてある。それは、文化6年(1809年)3月4日に、江戸時代の3大大火の一つである文化の大火(=車町の大火=牛町の大火)で、虎の門、六本木屋敷が焼失したからである。

正確な時代は、不明であるが、消失前直前の屋敷配置のわかる絵図面を示す(図10)。オリジナルもカラーであるが、より鮮明に見える様に、私が、色、文字に手を加えている。
   (内藤家資料=3-23別置文書―35-12「江戸上屋敷絵図面」)

この資料によると、北側に上地があるが、幕末の資料では、この領域も内藤家の敷地に組み入れられている。幕末から少しさかのぼった時期のものであることが分かる。 長屋には、参勤交代で殿様と一緒に上府してきた侍と、ずっと江戸にいる江戸詰の侍が住んでいた。後の報告で出てくるように、妻のいる江戸詰侍もここに住んでいた。東側の外堀に平行にある長屋は、敷地の境界を示すもので、2階建てであり、若侍が住んでいた。

  
 
図10) 上屋敷の屋敷配置図(資料ー2)

この図面では、火の見櫓の位置はよくわからないが、他の浮世絵や、屏風図などで見える位置と、上記絵図面中の長屋図の形(正方形)に近い物から、中心付近の土蔵の横に位置する正方形の小さな長屋が、それらしい。
また、敷地の西端に近いところに稲荷社が祀ってある。延岡の今山神社から勧進したものではなかろうか。

図10中の、東端の二階建ての長屋と堀の間は、表御門や、竹御門等への道であると同時に、最奥(最南端)の(2013.9.5追加) 櫓(やぐら)へ向かう道であり、内藤家の敷地内ではないように見える。しかし、内藤家が幕府に報告した上屋敷領地図(1809年提出)には、この道路も同家の敷地となっている。同家は、隅櫓の管理も担当していたのである。この櫓については、後に話題にする。

外堀は西には溜池につながっている。現在は、道路になっており、さほど高低の差は感じないが、昔は、ここは大きな段差があり、溜池から外堀へは、かなりの落差の滝になっていた。また、虎之門の前でもさらにもう一段、滝になっていた。溜池から落ちる水の音がうるさかったようで、庶民はこの滝を「どんどん」と表していた。内藤家の資料によると、「溜池落口」と表されている。溜池は、家康が、入城した頃は、入江であり、埋め立てていく段階で、上水用として大きな池(長さ1.4km、幅200m)になった。

この付近の様子は、次に示す、当時の浮世絵や明治初期の写真がわかりやすい。ここで金毘羅と示した地点は、当時、丸亀藩京極家で、屋敷内に金毘羅宮を勧請していたが、こんぴら人気が高まった文化年間に京極家では毎月10日に限り一般の参詣を許し、金毘羅様を詣りたい江戸町民にとっては、ありがたい祭りで、大変賑わった また、虎ノ門のすぐ外にある御用屋敷というのは、公儀隠密、つまりスパイを生業とする忍者連中の屋敷である。一旦事があれば、虎之門の外で敵と戦うのである。御用屋敷は、虎ノ門の他に、3か所あった。

4)  浮世絵の中の上屋敷

江戸時代の名所である延岡藩上屋敷は、多くの浮世絵の対象となっている。外堀に張り出した敷地は絵になるのである。私が調べただけでも、このあたりを描いた浮世絵、錦絵、泥絵が数多く残っているのである。延岡市が、ここにショーウィンドーでも作り、江戸時代、明治時代の浮世絵を展示してはどうだろうか?

図5) 浮世絵図6) 「内藤能登守屋敷」(1820年頃) 図7) 「虎の門外あふひ坂」(広重作)

図6は、泥絵という手法による「内藤能登守屋敷」(1820年頃)(芝花江氏蔵)という表題の絵である。泥絵という手法は、幕末に登場した泥絵具を用い、特に、当時、江戸の広まり始めた輸入品であるプルシアン・ブルー絵具を使用し、また、輸入技術である遠近法も使っている手法である。幕末の代表的な版画師 歌川広重もこのブルーを率先して使用し、広重ブルーと言われる程である。図6の絵も空にプルシアンブルーが使われ、遠近法も使用されている。

図5、図6、図7のいずれにも、向こうに溜池が見え、溜池から堰を下る水が見える。溜池から外堀へかなりの落差で水が流れ落ちている様子がわかる。 この絵の中にも、同様に、左側の坂は、葵坂という(江戸名所図会の説明では、現在の特許庁付近にあたる地に葵が植わっていたらしい)。それで、図中の堰を葵ヶ岡の滝ともいった。 図7は、名所江戸百景に広重作「虎の門外あふひ坂」(安政4年=1857)という有名な浮世絵がある。裸の男たちは、「金毘羅大権現」という提灯をもっている。金毘羅様をお参りした後なのであろう。また、図5の手前に、金毘羅宮の幡が見える。

葵坂の上と下に小屋が見えるが、これは、辻番所で、今でいう交番の様なもので、辻斬りを防ぐためであったらしく、江戸時代は、辻ごとに番所があり、近隣の大名屋敷から、武士が詰めていた。辻番所については、別の機会に取り上げたいと思っている。

5) 金刀比羅宮

図3中や、図5中にある金刀比羅宮とは、当時、延岡藩の外堀を介して向かい側、葵坂の途中に、讃岐丸亀藩京極家の屋敷があった(図1も参照)。その藩邸に中に、讃岐丸亀藩の名所 琴平神宮を勧請して祀ってあった。毎月10日の縁日に、金刀比羅宮を一般に公開したため、江戸っ子たちが集まり、大変にぎやかだったらしい。現在も、金刀比羅宮は、ビル街の中に残り行きかう人が参拝している。

6) 溜池

江戸時代以前にもこのあたりには涌き水のたまった池があったのだろうが、1606(慶長11)年に和歌山藩主浅野幸長の家臣矢島長雲が、現在の特許庁前交差点附近に堰を造って水をせき止めたのが本格的な溜池の始まりと言える。矢島長雲はこの功績を後世に伝えるため、池の堤に印の榎を植えたと『江戸名所図会』にあり、いまアメリカ大使館前から赤坂ツインタワーの方へ下る坂を榎坂というのはこれに由来するものであるそうだ。

この溜池は江戸城の外堀の一部をなすものであるが、神田上水、玉川上水が整備される前には溜池の水が上水としても用いられていた。また、徳川秀忠の時代には、琵琶湖の鮒や京都の淀の鯉を放したり、蓮の花を植えたりして上野の不忍池に匹敵する江戸名所になり、徳川家光はこの池で泳いだとも伝えられる(『江戸名所図会』及び「溜池発祥の碑」より)。

7) 上屋敷の俯瞰図

スカイツリーが完成したことで、注目を浴び始めた江戸時代の浮世絵がある。「江戸一目図屏風」(文化6年=1809年:津山郷土博物館所蔵)である。津山藩抱絵師であった鍬形恵斎が描いたものである。偶然にも、スカイツリーの位置に近い場所の、スカイツリー展望台と同程度の高所から江戸の街並みを描いたものである。

当然、そのような位置から彼が見て描いたのではなく、想像して描いたのであるが、最近の研究で、描かれたものが、空想の産物ではなく、かなり実物を正確に描いているのではないかと見直されている(日経:2013.4.5)。全体図を図8に示し、延岡藩上屋敷の付近を○印で示し、その付近を拡大した図を示す。

  
 
図8) 江戸一目図屏風図9) 上屋敷付近の拡大図


図6と図9を比べると、屋敷の様子が似ているのである。また、両方の図の屋敷内に火見櫓が見える。その付近の大名屋敷も拡大して見てみると、火見櫓を持っている屋敷がかなり多いのである。この図をもっと調べて見たくなる。内藤家の「火見やぐら」についても、別の機会の詳述する予定である。
上屋敷の手前に、金刀比羅宮の幟が見えているようだ。
  図9の延岡上屋敷の右側に奥に向かって行く通りが見える。三年坂という。今も文科省の北隣にあって西北方向に上がる坂である。最近の坂ブームで有名になった坂でもある。

8)追伸> 延岡藩上屋敷の幕末時の写真見つかる

幕末期に日本を訪れたスイス人のA.アンペールの日本滞在記である「幕末日本図絵」にある写真の中に、延岡藩の上屋敷が写っている物を見つけた。
  
 
図9) 延岡藩上屋敷(文久3年〜4年)を写した写真


この写真は、1863年(文久3年)〜1864年(文久4年=元治元年)の間に撮られたものである。正確には、写真をもとに描き写したものである。
今でいうと、コピーを撮ったようなものであるから、実際の写真と同じである。

この写真は、写し手の位置の高さと被写体の特徴から、愛宕山の北の端から北西方向を撮ったものであると分かる。
手前左手に、愛宕山の西隣にあった天徳寺の墓所が見える。

右の@の位置の屋敷が延岡藩の上屋敷である。左側の建物より少し高くなっていることがわかる。正門の位置、もう一つの入り口の位置もあっている。
その後部はより高い丘上になっている。

延岡藩屋敷の左隣に見える長い屋敷Aは、肥前藩(佐賀、鍋島氏)の中屋敷である。門が独特の形をしているようだ。
また、肥前藩の屋敷の後ろの山の中に、山王神社が見える。その位置関係から、写し手の位置がわかる。
次に、延岡藩上屋敷、佐賀藩屋敷、愛宕山の位置関係が分かる地図を示す。

  


もう一度、延岡藩上屋敷を描いた浮世絵と見比べてほしい。上記写真の屋敷と浮世絵中の屋敷の絵とよく似ていることがわかる。
浮世絵もかなり正確に描いてあることがわかる。

【X】資料

   資料1)内藤家資料(明治大学所蔵=著作権):1-4家ー468「文化6年江戸絵図御改付公儀御書出節之図控」(1809年)
   資料2) 内藤家資料(明治大所蔵=著作権) :3-23別置文書―35-12「江戸上屋敷絵図面」
   資料3) A.アンペール著「幕末日本図絵」(上)(高橋邦太郎訳:雄松堂出版:昭和60年)


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