延岡藩江戸藩邸日誌: 登城編(1)

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 江戸城の紹介

今回のトピックス

  延岡藩に限らず江戸藩邸では、幕府との接点であり、他藩との姻戚関係を結ぶ上でも、重要な拠点であります。
  一方、江戸藩邸の維持費は各藩に重くのしかかっているのも事実でした。延岡藩の場合、藩主の奥方、前藩主、
  前々藩主の奥方などうるさ型が多く、留守居役をはじめ苦心しています。

  これから、シリーズとして、江戸藩邸日誌を読みながら、いろいろなしきたり等を紹介していこうと思います。

  最初のシリーズは、藩主の江戸城登城に関するものを紹介します。
  その第一作は、江戸城自体について紹介します。藩主の登城の本丸玄関に達するまでを紹介します。  (2014.7.2)


【1】 江戸城登城

殿様が江戸詰になると、決まった日に江戸城に登城しなければならない。殿様まわりの出来事でも登城は最大のエベントであるから、
近習のものはミスのない様に緊張する。江戸詰めの日誌を紐解く前に、今回は、江戸城について報告する。

【2】行程

1か月に数回の決まった登城日には、延岡藩の藩主を乗せた駕籠と共侍たちは延岡藩の上屋敷(図中@)を現在の時刻で朝9時から10時頃に出る。

延岡藩の一行の登城コースは正確には不明だが、延岡藩上屋敷を出ると、必ず、どこかの大名屋敷の前を通過することになる。緊張の瞬間である。、

(1)途中、大名屋敷前を通過

延岡藩の場合、福岡藩黒田家の藩邸前、広島藩浅野家の大大名の屋敷前(地図上A点)を通るのが普通であろう。 この場所は、浮世絵でもよく題材にされた有名な場所である。

絵中、左の屋敷が福岡藩黒田家の江戸屋敷であり、右の屋敷が広島藩浅野家の江戸屋敷である。
いずれも門構えから大大名であることがわかる。両家の間の通りは、「霞が関坂」といい、今の外務省と総務省の間の通りである。

登城の際は、よその藩の行列に会いたくないので、この両大家がいつ出発するかというのは、延岡藩の担当者がよく注意した点であろう。
特に御三家の行列に会ってしまうと、延岡藩の殿様は駕籠から降りて挨拶をしなければなければいけなかった。
先かけの者は、他藩の行列に会わないように注意し、脇道などの入った。この浮世絵にも大名行列が描いてある。
もしかしたら、延岡藩の一行かもしれない。登城日には、大名行列を一目見ようという野次馬も集まってきて、屋台なども出る騒ぎで、
大名行列の品定めをしたことだろう。当レポートでも桜田門外の変のところでも触れたように、
多くの観光客(?)は、「武鑑」という現在の四季報に似た情報誌を持って、家紋や、旗、等を見ていた。

(2)江戸城大手門に到着

延岡藩の一行は、A点を通過して、図中Bの桜田門を通るのか、あるいは、地図に赤線で示した馬場堀沿いに向かうのか不明だが、
最終的には、地図上の点Cの大手門前に来る。大手門には、「下馬」と書いた標識があり、馬の場合はそこで降りなければならない。
駕籠の場合は、図中Aに達したとき、「下乗」の標識がある。そこで、殿様は乗ってきた駕籠から降りる。

大手門までは多くの家来を従えているが、大手門を通れるのは、六尺(駕籠担ぎ)4人、挟箱持1人、草履取1人,侍4〜5人のみである。
その他の家来たちは、大手門の外で、殿様が江戸城から下がってくるのを待つのである。現在の時刻で、夕刻の4時ごろまでであろう。
同じ日に、多くの藩主が登城するから、この大手門前には諸藩の藩士たちでいっぱいになる。饅頭屋などの出店も出ていたようである。

(3)江戸城内に入る

図中2で、籠を降りた殿様は、下乗橋を渡り、大手三の門図中3)を通り、中の門図中4)を通り、右に迂回しながら坂を上る。
そして、中雀門図中5)をくぐると、江戸城の屋敷と玄関(図中6)が見えてくる。        
図4)明治初年の大手門ー高麗門 図5)現在の大手門 図6)大手門の櫓門(やぐらもん)を内側から見た写真

右の図7は、枡形(ますがた)門の概略図である。

江戸城に限らず、門は、右図に示すような「枡形門」といわれる門構造をしており、四角(枡形)に周囲をかこみ、2箇所に出入り口(門)を設けたものをいう。
外側に面した門を高麗門(こうらいもん)といい、そこを通ると90度向きを変えて、櫓門(やぐらもん)を通るようになっている。
誰かが攻めてきた時に防御しやすい形なのであろう。外に面した入口門「高麗門」の方が小さく、大群で入りにくくなっている。
江戸大手門の櫓門を内側見た写真を示す。立派な門であることがわかる。

(4)下乗橋と三の門

下乗橋の手前で、殿様は駕籠を降りなければいけない。ここからは、殿様は、自らの足で歩いて、下乗橋を渡り、三の門へ向かうが、
下乗橋から、お供できるのは、さらに少なくなって、挟箱持1人、草履持1人、侍2人だけとなる。        
図8)三の丸から見た大手三の門と下乗橋 二の丸大手門ともいう(明治初年写) 図9)現在の大手三の門の高麗門側の石垣。下乗馬橋と堀は、埋め立てられて今はない。 図10)大手三門の櫓門を抜ける前の、枡の内側から櫓門(の石垣)を見た現代の写真。石垣の素晴らしさに驚く。

(5)中の門

                      
図11)中の門(明治初めの写真)図12)現在の中の門:石組みが素晴らしく美しい図13)百人番所(現在の写真):多くの警護の侍が詰めていた。
中の門の前にある

(6)中雀門

                      
図14)中の門を抜けると左折し、右に見える石垣を迂回する様に進む。図15)右折しながら坂を上る図16)中雀門(の石垣)を江戸城屋敷の玄関付近から見た様子

                      
図17)明治初期の中雀門あたりの風景。
玄関側から見た光景(焼け落ちた跡)。
図18)中雀門:門を抜けると、正面に江戸城の玄関が見える

【3】江戸城 屋敷内へ入る

江戸城の玄関に来ると、殿様は、刀を、付いてきた侍に 預け、自分は刀を持たず、脇差だけで一人だけで江戸城内に入る。 江戸城内で殿様のお世話をするのは、坊主しかいない。弁当をもって、自分の控室(帝鑑間)に向かうのである。
江戸城内では、殿様様には、家来はいない。座布団もない。畳の上ずっと座っている。お茶も自分で取りにいけない。
顔見知りの坊主に頼むのである。そこで、弁当も取るのであろう。

江戸城内のことはこれから先のレポートで順次追っていく。
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