勝海舟と延岡藩(1)

No.18> 勝海舟と延岡藩(2)

    勝海舟の未発表文の発見か

今回のトピックス

  勝海舟の、人生の後半と、延岡藩に残る勝海舟の明治初期の随筆を紹介する。
  この随筆は勝海舟の「処世訓」の様なもので、彼の文章としても“軽い”感じの文章である。
  この文章は、勝海舟全集に収録されていないようなので、今回が、本邦初公開の新発見の文章 ではないか。

  「文明開化」とか「因循姑息」という明治初期のはやり言葉が、登場している。
  また、「アホウ」という彼の得意ネタが登場している。


【1】勝海舟の後半

1年半の蟄居を経て、時代が、勝海舟を求めて、慶応2年に、軍艦奉行に復活する。第2次長州征伐の後片付けと行い、鳥羽伏見の戦いの後、幕府の敗北が明白になってきて、幕府側の代表として、西郷隆盛と会見をし、江戸を戦火から守り、徳川慶喜を何とか守り、徳川本家の再興を行うなど、勝海舟無くしては絶対に不可能な仕事を行う。敗北側の代表程難しい立場は無い。後の歴史から見ても、勝海舟以外にはこの仕事をできる人はいない。その後、彼は、一貫して、慶喜を守り続けている。また、西郷隆盛の西南の役の後の名誉回復にも尽力している。彼は、もっと評価されてよい歴史上の人物だと思う。彼の年表の後半を示す。
 

【2】延岡藩資料に残る勝海舟の文章=未発表文か

大意は
「阿房の辞
           聖門の罪人
            出役先生述べる
それ処世は羞である。人間わずか 50年。苦楽は、人の道であり、尺取り虫の動きの様に屈伸ある様なものだ。世の中の人は、皆、奢っている。
私、一人、うらやんでいる。(昔)「人、皆、金がある。自分だけ困っている」と言ったのは、(自分の)ダメな親父の言葉だ。文明開化は、あまねく、世の中の人の口実となり、因循姑息は、青楼(女郎屋のこと)で、よく聞く言葉となった。

(中 8ページ分、省略)

店に至り、我、借金の淵に苦しむ。吉原のことは、声も無く、香りも無く、懲りた。必願は、転反側して、阿房は、寝て待つことは無い。
右、一葉は、阿房の寝言にして、春の夜半に、短檠(タンケイ)の許(モト)に  阿房らしくも 聞くままに 記したまでだ。 筆を収める頃に、カラスが アホウ アホウと鳴いた。」


補注>

1)「聖門の罪人」とは、孔子の教え(聖門)に反した人物の事。主人の幕府を倒したことで、自分の事を自虐的に言っているのであろう。

2)出役:江戸幕府の職制で、本職を持つものが臨時に他の職を兼ねる事をいう。この頃、一旦は水戸に引き取られた慶喜を、水戸では居心地が悪い(内紛がひどい状態だった)ということで、海舟のはからいで、静岡に移している。それに伴い、海舟自身も、静岡に引っ越している。本職は、慶喜の家来ということであろう。

3)「因循姑息」勿論、古臭いことをいうのであるが、このころ、「散切り頭をたたけば、文明開化の音がする。ちょんまげ頭をたたけば、因循姑息の音がする」というざれ言葉がはやっていた。当時、子供も、意味がわからず、「因循姑息」という言葉を使っていたようだ。この文章に、その、「文明開化」「因循姑息」が出ているのがほほえましい。

4)「蠖」は。尺取り虫の事。よくこんな字をかけるなと思いませんか。

5)「短檠」(タンケイ:小型の屋内用灯り。茶の湯などで夜噺等に使用するそうだ。)(この字の解読が最も難しかった)

この文章をよく見てみよう。

@ 「延岡藩」の印刷。
特に左のページの用紙を見てほしい。「延岡藩」と印刷してある。江戸幕府時代にも、「藩」という公式用語は無かった。「延岡藩」という正式用語ができたのは、以外にも、明治2年7月25日の版籍奉還によって初めてできたのである。その時、藩主だった内藤政挙が、「延岡藩知事」となり、明治4年7月14日の詔勅で、版籍奉還となり、これで、「延岡藩」という名称は無くなり、大淀川以北を「美々津県」、以南を「都城県」となった。「延岡藩」という正式名称は、僅か2年だけであった。今回の勝海舟文章が書かれている用紙から、この文章が、書かれたのは(あるいは写本されたのが)明治2年7月から明治4年7月まで間の事だったことが分かる。

A 活版印刷の歴史
また、この用紙の罫線、延岡藩という文字のシャープさから、この用紙は活版印刷で作られたではないかと思う。それで、日本における活版印刷(西洋式印刷)の歴史を調べてみた。もともと長崎に於いてオランダ通詞(通訳)の養子だった本木昌造が、明治2年、上海から米国人技師ガンブルを招き、活版印刷を学び、翌3年に長崎活版所を創立している。また、本木の門弟の古川穂次郎が、京都に印刷所「點林堂」を建てたのが、明治3年であり、同様に門弟の平野富二が東京神田に印刷所を作ったのが、明治4年である。印刷の歴史からも、この時期に印刷をしていてもおかしくないタイミングである。

B 「阿房」について
勝海舟が、自分の事を「阿房」と呼んでいる。最初は、「安房」であったが、明治2年ごろから、「阿芳」と呼び始めたと年表に書いたが、ここでは、それとも違う「阿房」を使用している。この使い方は、珍しいのではないか。そして、この種の「安芳」、あるいは、「阿房」と書いて、「アホウ」と自虐的に読むことがあったと言われているが、この文章でも、カラスが「アホウ、アホウ」と鳴いたと書いている。自分の「阿房」とかけているのである。
また、「果報は寝て待て」のシャレで、「阿房(アホウ)は寝て待つ ことはない」と言っている。軽い感じである

「延岡藩」、印刷技術、「阿房」の3点から、この文章が書かれたのは、明治3年〜4年ごろではないかと結論する。 この文章は、長いので、中の8ページをとばしたが、この間に書いてあることは、ほとんど吉原(女郎屋)の事である。内容はどうってことはないが、勝海舟の文章としても珍しい内容ではないか。

【3】勝海舟の新発見の文章ではないか

この文章「阿房の辞」は、勝海舟全集を調べたが、中に入っていないようなのである。この文章は、勝海舟の未発表文ではないかと思っている。どなたか、ご存知の方はいませんか?

未発表分なら大変なことである。そうでなくても、珍しい文が延岡藩の資料に含まれているのも素晴らしい。この正式の罫線の入った用紙に書かれていることは、勝海舟の直筆ではないだろうが、かなり、オリジナルに近い文章ではないだろうか。延岡藩の海舟と昵懇の人物が、特に所望したものだと思われる。文字からして、多分、海舟の直筆ではなく、写本であると思われる。この文章のフルバージョンの紹介は、別の機会に改めて行いたい。

【4】明治になってからの勝海舟

勝海舟は、生涯、幕臣の意識を持ち続けた。西郷隆盛との会見後、徳川慶喜の蟄居先を水戸にしたが、その当時、水戸藩内は、内部分裂激しく、慶喜の落ち着き先としては良くないことがわかり、急遽、徳川家を、現静岡県に再興し、そこに、慶喜を招くことに尽力している。そして、自分も静岡に引っ越している。明治政府からは、何度も誘いを受けるが、断り続けている。ご意見番としての地位は残している。

そして、年表にもある様に、官位は上がり続けていく。彼が、70歳の時、長男の小鹿が海舟より先に亡くなった。二男(妾の子)はいるが、伯爵の勝家を、つぶすわけにはいかない、また、慶喜は、無官位であるのも申し訳ないということで、慶喜の一番下の男児(当時4歳)を勝家の養子にして、勝の孫娘と結婚させている。

彼が、76歳の時(亡くなる前の年)、前主君、慶喜に対して最後のご奉公をしている。慶喜の天皇との拝謁を実現させている。慶喜は、江戸城を出て以来、31年ぶりに江戸城訪問でもあった。慶喜は、よほど感動した様で、翌日、勝家を訪問して、礼を言っている。その翌年、勝海舟は、77歳で亡くなったが、海舟があぶないという情報が、慶喜邸(現巣鴨付近)に入った時、慶喜は、碁をしていたが、其の碁を投げ捨てると、流しの人力車にのり勝家に駆けつけた。その間中、慶喜は「速く、速く」と人力車を蹴り続けたそうだ。結局、慶喜を最後まで支えた幕臣は勝海舟だけだったと言える。

【5】資料

1) 内藤家資料:2-13-44
2) 本 「慶喜と勝海舟」:立石優著(学陽書房)



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