A 活版印刷の歴史
また、この用紙の罫線、延岡藩という文字のシャープさから、この用紙は活版印刷で作られたではないかと思う。それで、日本における活版印刷(西洋式印刷)の歴史を調べてみた。もともと長崎に於いてオランダ通詞(通訳)の養子だった本木昌造が、明治2年、上海から米国人技師ガンブルを招き、活版印刷を学び、翌3年に長崎活版所を創立している。また、本木の門弟の古川穂次郎が、京都に印刷所「點林堂」を建てたのが、明治3年であり、同様に門弟の平野富二が東京神田に印刷所を作ったのが、明治4年である。印刷の歴史からも、この時期に印刷をしていてもおかしくないタイミングである。
B 「阿房」について
勝海舟が、自分の事を「阿房」と呼んでいる。最初は、「安房」であったが、明治2年ごろから、「阿芳」と呼び始めたと年表に書いたが、ここでは、それとも違う「阿房」を使用している。この使い方は、珍しいのではないか。そして、この種の「安芳」、あるいは、「阿房」と書いて、「アホウ」と自虐的に読むことがあったと言われているが、この文章でも、カラスが「アホウ、アホウ」と鳴いたと書いている。自分の「阿房」とかけているのである。
また、「果報は寝て待て」のシャレで、「阿房(アホウ)は寝て待つ ことはない」と言っている。軽い感じである