勝海舟と延岡藩(1)

No.17 勝海舟と延岡藩(1)

    「孤憤」=海軍増強論

今回のトピックス

延岡藩の記録の中に、勝海舟の文章(の写し)がいくつか残っている。田舎の譜代大名としては、当代の最高の知恵者であり情報通である勝海舟のお近づきになり情報と教えを乞うたのであろう。今回紹介する文章は、勝が軍艦奉行を解かれ、自分で創設した神戸操練所を閉鎖され、蟄居を命じられた最中に書いた文章である。わが身の不遇を嘆く、恨み節であり、海軍の重要性を説いている文章で、これが、延岡藩が、明治になって、軍艦購入のきっかけとなったと文章と思われる。延岡藩に勝海舟と昵懇の間柄の人物が居た。彼が、写本させてもらった文章であろう。

幕末最大の人物である勝海舟の文章をゆっくり読んでほしい。(2014.4.4)(4.5補追)


【1】序

 勝海舟という人は、 幕末期における最高の知識人で、所属組織の盲目的な価値観に囚われず、国家を客観的に判断し、冷静で、それでいて主君のことを片時も忘れず、自らの利益には清廉であった人物であったと思う。彼は、革命の敗北側に立っていたがゆえに、明治政府において、望まれるも、中心に位置することを拒絶し、それゆえに、明治維新後の政治の中心に出てこない。しかし、少しも、彼の価値を下げるものでない。彼に接した人は、彼の能力と人物に惚れる。それは、西郷隆盛と相通じるところがある人物である。江戸城開城における2巨魁の会談は、肝胆相照らすものであったろう。

(右の写真は、勝海舟(当時は勝麟太郎)が、38歳の時、サンフランシスコで撮影したもの)

延岡藩は、鳥羽伏見の戦まで徳川の譜代として徳川側に付いたこともあり、徳川側の最高知識人の謦咳に接しようと積極的に近付いた形跡がある。延岡藩のその人物は、見当がつくのであるが、どうしてもはっきりとした証拠が見つからないので、今回は、その人物には触れない。延岡藩資料に残る勝海舟を追いかけてみることにする。勝の資料を見ることで、延岡藩の時代への認識と対応への感触がにじみ出てくる感じがする。

【2】年表

勝海舟の活動の前半の年表を示す。

彼の面会記録を見ると、歴史に出てくる人物すべてと会っていると言えるほどである。それはとても魅力的である。また、勝海舟は、幕末期の日本において八面六臂の活躍で、日本中を走り回って徳川家のため、日本の為、主君のために奔走している。しかし、それらは、今回のレポートの主題ではないので、詳しくは触れない。

今回のレポートに関係しそうな歴史事実だけを年表には示した。彼は、何度か失脚しているのであるが、その都度、復活している稀有な人物である。今回、「国家の安定と安全のために海軍を増強すべき」という彼の主張を紹介するが、それを書いた時期も失脚して蟄居している最中である。

勝の閉門蟄居は、元治元年(11月)から、慶応2年5月までの1年半年に及ぶものである。海軍奉行の時、2000石だった役料も、元の貧乏旗本の100石に戻ってしまった。蟄居とは言え、訪問者は引きも切らず、彼の元には、幕府以上の情報が集まっていたのである。実際、薩長同盟の情報すら得ていた(操練所生徒だった柳川藩士からの情報)

この蟄居中に、幕府は、第2次長州征伐の行動を起こした。将軍家茂は、兵を率いて、慶応元年5月に江戸をたち、11月に、朝廷より長州討つべしの勅許を得ている。実際に長州―幕府の戦端が開いたのは、慶応2年6月である。この間に、坂本竜馬が仲立ちしたと言われる薩長連合という幕末史上大きな出来事が起きている。各藩と幕府という偏狭な構図ではなく、日本を一つにして、海外と対抗すべきであるというより大きな意識からである。これこそ、勝海舟の持論であった。この薩長連合により、第2次長州征伐に、薩摩は参加しないことになり、幕府側は、数こそ15万人であるが、大きな力をそがれたことになった。

勝が復帰し、再度、軍艦奉行に任命されたのは、慶応2年5月28日であった(第2次長州征伐の開戦前)。すぐに、大阪行きを命じられる。大阪に着くと、すぐに、会津―薩摩双方の慰撫と、薩摩が長州攻撃拒否の調停を命じられる。8月になると、長州との停戦交渉を行っている。幕府側で、長州、薩摩と話ができるのは、勝海舟しかいなかったのである

【3】延岡藩の記録に残る勝海舟の文章「孤憤」

その全文を示す。但し、オリジナルの文章ではなく、延岡藩の誰かが写し書きしたものと思われる。勝海舟の文章は、送り仮名があり読みやすい形ではあるが、昔の人特有の漢文の素養があり、しかも高度の知識人であるがゆえに難しい言葉が出てきて読み解くのが難しい文章である。
訳>
孤憤

日月の照臨するところ、必ず普通の大道あり。

それこれを得たのに失うというのは、勤惰による。得ないこと久しいといえども、数年の後には、悔悟得道は、結局は、これに帰する。昔、これを得たけれども、今、失うこともある。古今、これを得て、悔悟したということがある。思うべし。その遅速、緩急、得失は、勤惰に関係することを。

1. 国のこの大道を称して国是という。これを注解すれば、至誠の2字に決まる。いわゆる誠の者は天の道であるという。国是が立たない諸国は、是を狭小と解する。

卓識は無く、唯、一国の私道を固守して、どうしても動かない。国内は弊変し、武備は、悉く古くなっても充実せず、唯、目先の義理ですべてを図る。驕慢不遜、力を量らず、遠大の知識は無く、これゆえに、賢能を登用することができない。

様々なことに対して、唯、ねたみを持つだけである。徐々に、みんなの士気が衰弱してきた。もし、他国から見てみれば、手を叩いて笑うことだろう。これは、アジア全体の風習で、これを脱しようとする国はなかった。

ヨーロッパの船が通航するようになって、彼らの略奪をほしいままにさせ、大抵の国は、国内が瓦解し、力の無いインド、中国の様になる理由は、熟考してみれば、当然の結論だ。

葵5年に米国の軍艦が、日本の浦賀に入ってきてから既に十有余年たち、唯、戦うか和議するかに、こだわり、古い考え方を脱することができず、瑣事の個人的な意見に陥り、ついに、今日に至っている。

最近になっては、国威は、次第に萎えてきて、軍備は整わず。和議するか戦うかのどちらにするにしても、兵力が無ければ、何を以って国を守る要とするのか。

西洋諸国は、どの国も、同盟交和すると言って、その国力を出すのは、兵備の一部のみ。兵力が強勢でなければ、交和といっても、何らかの不和、不測が生じれば、各国がそれに乗じて蹂躙し、圧倒するのは免れない。

今、若し、貿易を通じて、信頼を結べば、兵力は不要という者がいたら、その人は、世界の形勢を熟知してない。押したり引いたりするというのは、国を治める要だ。和交は、世界の大勢にかかることである。一国の一方的利益だけを得るものではない。武備は一国の急務である。

決して怠惰してはいけない。西洋諸国の制度をしっかり見なさい。兵威が盛大で無ければ、国威は振るわず、信義は固くなく、国家、悉く衰微して、他国からの支配を受ける。

西洋人の言うには、泰平を保とうと望むなら、みんな兵備を強く整えよと。これは、欧州諸国の目標とする考えである。

頭が聡明で無い者は、どんなことにも疑いを持ち、目先の安楽を常に求め、その癖は、最後に、自亡となることも理解していなく、益々疑い深く、益々起るだけである。1個人でそうだから、国に於いてもその通りである。

従って、まさに今、急務なことは、兵備である。凡そ、長短得失はあるもので、1つの物で全部を備えるものはない。もし、一歩でも利があれば、採用すべきだ。従って、昔は良かったが、今はダメというもの、日は常に新しくなり、用いるものも変わるので、あえて、昔のものを固守するな。

しかしながら、昔のことをよく知らなければ、旧弊や陳腐に陥るだろう。これは武芸の要であり、昔のことだけをありがたがる人には理解できないだろう。政治の政界でも然り。

まさに今、外国船艦が、やって来るにおいて、我国内で、個人での議論が沸騰し、上位下位がほとんど転覆しそうである。上者は、恐れて定まらず、下者は、妄動激怒し、偏って激情している。いわゆる、「一犬、虚に吠えて万犬、実を伝える」のようなものだ。狂人走れば、非狂人もまた走るというのに近い。

また、その間際に、詐謀が百出し、ついに、紛糾し混乱することになる。奔走するものは、諸公であり、消耗するのは国財だ。恨めしく思うのは下民だ。

このようにして、3年、望外の幸せは年穀が豊穣であったことだ。これは望んでいたがなかなか実現しなかったことだ。天が、もし、大災を下していたら我が国は、これをどうしたであろうか。深く痛嘆するところだ。

私は、常に、論じてきたことだが、まさに今急務は、海軍に有り。海路を開けば、世界を周遊し、胆力と知識を遠大にし、海外の国を知ることができる。国内の瑣末なこと、それは思慮を煩わすだけだ。

議論好きの者は、難しい顔して言うだろう。海軍を興し、そのため技術が国内で整頓できなければそれは不可能だ。内治を後にし、外事を先にするというのは、恐らく、道理に反するのではないかと。

ああ、どうしてだ。まさに今、外国が旺盛であり、器械が巧緻であることは、開闢以来、いままで聞いたことが無い。従って、先ず、これらをもって証明し、自分の物にすることを先務とすべきだろう。

今、唯、内側を整えようという者は、昔の習慣に帰り、官吏を交代させるだけだ。それは、蒸気機関や電信器が製作されてからは、万里も隣の様なものだ。その外いろいろな機械は、わが国で昔の例にはないものだ。

世界がこのようになっているのを観察し熟知すれば、国内の一点でもって内側を整えるようとするのは、自然の摂理に反することだ。

何か良くなることがあるだろうか。思うに、我が国内の紛糾が原因で生まれ、且つ、泰平の弊習から生じると言っても、規模は偏小で、海外のことを知る方法が閉絶することから、海外のレベルに達することができるか。これゆえに、その病の原因を明快に推察すれば、言うまでもない。

自分で知りなさない。それなのに理解せず、古い習慣の服を脱がない者は、空しい時間を過ごしていて、その偉功を見ることができようか。必ず、一事が整い治れば、一事は砕け散り、照々たる歳月間を復た見ることも無く、国破れて、民恨み、疲れ果てて、最後には、瓦解するだろう。


良医が病気を追跡する場合、必ず、先ず、その病気の原因を洞察し、これに合う薬を与える。平凡な医者はそうではない。すべて、病気は、胸内にあるとする。もし誤って投薬すれば、治らないだけでなく、下手すれば命を落とすことになる。病を治すも、国家に於いても同様だ。

従って言う。今まさに急務は、武備にある。武備は海軍より先にすべきものはない。もし、真の海軍ができたら、さらに頭上の天針は、国の民の知識の偏小の病を治すだろうし、ついには、世界の雄として輝くことになるだろう。

皆さん、目を閉じて、今その可否を考えよ。蕩々たる天下、皆、これだ。誰に向かって思うところを言おうか。慨嘆のあまり、取り敢えず書いて、来訪者に渡す。

甲子(元治元年)初冬                  勝安房守義邦


【3】いつ書かれた物か

ここで甲子とは元治元年(1864)の初冬である。勝海舟が、「安房守」を名乗り出したのは、大坂城にて軍艦奉行となった時であるから、元治元年5月14日ごろである。この文章が書かれる、半年ほど前である。彼は、後に、別の字を使用した「アワ」を名乗るのであるが、それは、次回の報告で触れる予定である。 そして、この時期、彼が失脚している最中に書かれたものである。なぜ、彼が失脚したのか、少し前に戻ってこの時期を見なければならない。 この年の、5月29日に、神戸操練所を開業している。

「今度、海軍術盛大に興させられ、摂州神戸村へ操練所御取り建て 相成り候につき、京阪、奈良、堺、伏見など住居の御旗本、御家人、子弟、厄介は勿論、四国、九州、中国辺 諸家家来に至るまで、有志の者は、罷り出、修行すべく候」(海舟日記)

とある。この操練所で訓練するものは、幕府側の人間とは限らないのである。海舟からすれば、海外諸国と日本の関係を意識してのことであり、もちろん、この操練所を作るに当たり、幕府の了解は得てのことである。

しかし、幕府側から見れば、一度は了解したことではあるが、ほとんどの人、特に幕府側の人からは、反幕府の行動にも思えたのである。また、この頃、長州藩によって禁門の変(7/19)がおきて、結果、長州は京都から逃げ去った。しかし、彼は、長州に同情し、会津藩側をせめている。これも一因であろう。この頃、彼は、西郷隆盛と初めて会っている(9/11)。西郷が、大阪にいた勝を訪ねたのである。そこで、外国公使が艦隊を率いて大阪湾に進出し、条約を結ぶことを強要してきた場合の対策を、勝に尋ねている。勝の答えは、

「今の幕府では、外国も侮るだろう。それよりは、賢明な4〜5名の諸侯が会合して、外国と交渉した方がよい」

と答えている。その後、西郷が大久保に

「共和政治をやり通し申さず候ては相済み申すまじく」

と伝えているのである。ここで共和政治とは、列藩による政治のことである。この初対面の時、西郷の、勝に対する印象は極めて強かった。

「勝氏へ 初めて面会 仕り候ところ、実に驚き入り候人物にて、最初は打ちたたくつもりにて差し越し候ところ、頑と頭を下げ申し候。どれだけか知略のあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候。先ず、英雄肌合いの人にて、佐久間(象山)より事のでき候義は、一層も越し候半。学問と見識においては、佐久間は抜群の事に御座候えども、現時に臨み候ては、この勝先生と、ひどく惚れ申し候」

と大久保へ手紙を送っている。相当の強い印象を受けたのと、同時に、男が男に惚れたのであろう。この頃、江戸では、海軍操練所の件、長州ひいき等により、勝はけしからんということになり、すぐ江戸帰ってこいという命令が届き(10/22)、軍艦奉行を罷免され、「過激徒叛逆」の汚名を被り、蟄居が決まった(11/10)。
蟄居といっても、訪問客は引きも切らず、彼の人脈の豊富さを示している。

この文章が書かれたのは、勝が失脚して、蟄居中である。このことを知って読むと、彼の憤慨が分かる。

この文章では、勝海舟が、蒸気機関、電信器を知っており、それが、空間を大きく縮めるものだと実感として知っているようである。咸臨丸で米国訪問した時に経験してきたのか。

彼が蟄居し、閉鎖された神戸操練所の訓練生たちは、その後、薩摩が引きうけている。

【4】延岡との関係

この文章は、当報告でも、第15部の「延岡藩軍艦購入」の所でも少し触れた。この「憤慨」は、勝海舟全集の補遺の中に入っている。この文章は、後になって見つかったのであろう。その記録によると、山形県遊佐町で見つかったとある。同町は、勝海舟の弟子で、後に新橋―横浜間の鉄道開通に尽力した佐藤政義の出身地である。多分、彼が先生の文章を写して郷土に残したのであろう。

全集の文章と今回の延岡藩に残る記録を比べると、延岡藩の記録の方がオリジナルに近いことが分かる。文章を何度も写していくと、どうしても間違いや、飛ばしが出てくる。全集の文章の方が「ぬけ」が多いのである。延岡藩の記録が先に見つかっておれば、勝海舟全集に、より完全な文章を載せられたのにと残念に思う。

延岡藩は尊敬する勝海舟の意見を聞いて(元治元年=慶応元年)、慶応4年(明治元年)に軍艦「顕光丸」を米国から購入している。ただ、海舟が唱えたのは、海外に対抗すべく日本全部で1つの海軍を増強すべきという主張であり、各藩レベルでの主張ではないのだが、延岡藩は、「国」とは「自分の藩」という意識であった。

【6】資料

1) 内藤家資料:2-10-12
2) 勝海舟全集22「秘録と随想」の中の記録補遺(p77)



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