今回のトピックス |
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江戸も終わろうとしている慶応3年に4月に、坂本竜馬率いる海援隊が大洲藩の蒸気船「いろは丸」を借りて、 長崎から大阪へ渡航中、紀州より長崎に向かっていた紀州藩の「明光丸」と瀬戸内海で衝突し、「いろは丸」は沈没して しまった。 御三家の紀州藩と浪人集団の海援隊が海難事故をめぐって論争し、竜馬側が圧勝し、紀州藩が膨大な賠償金を支払った 事故であった。竜馬が過大に描かれている司馬遼太郎の小説のおかげもあり、竜馬像をより大きくした事件でもある。 延岡藩の資料に、紀州藩が長崎奉行所に提出した書状の写しが含まれていた。 今回、竜馬側からの視点ではなく、紀州藩からの視点で書かれたいろは丸関係の資料を紹介する。 また、いろは丸船将であった井上将策の資料(レポート15でも一部紹介)を紹介し、大洲藩における「いろは丸」の 位置付を明確にする。 延岡藩の資料に あの 坂本竜馬が登場する。 いつもながら、延岡藩は、どういう意図があって、そして、いつ、この資料を延岡藩の資料に加えたのであろうか。 |
長さ : 30間(55m) 全幅 : 3間(5.5m) 深さ : 2間(3.6m) 総トン数: 160トン 馬力 : 45馬力 3万4000両で購入。 マスト3本であり、帆走も可能である。 | |
いろは丸の仕様 | いろは丸と思われる絵図面 インターネットで見つけました) |
長さ : 42間(76m) 幅 : 6間(11m) 深さ : 3間半(6m) 馬力 : 150馬力 総重量 :887トン 鉄製 スクリュー船 「いろは丸」に対して、長さ、幅ともに約1.5倍のサイズになる。右図でその大小関係がわかる。 紀州藩がグラバーから15.5万ドルで購入したもの。 その後、明治時代に、三菱の所有となった。 | |
明光丸の仕様 | (いろは丸記念館にある明光丸(左)といろは丸(右)の衝突予想図だそうです。 インターネットで見つけました) |
資料表紙 | ヒアリング一部 (p2〜p3) |
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