いろは丸沈没事件

No.16> いろは丸 沈没事件

      坂本竜馬の登場

今回のトピックス

  江戸も終わろうとしている慶応3年に4月に、坂本竜馬率いる海援隊が大洲藩の蒸気船「いろは丸」を借りて、
  長崎から大阪へ渡航中、紀州より長崎に向かっていた紀州藩の「明光丸」と瀬戸内海で衝突し、「いろは丸」は沈没して
  しまった。
  御三家の紀州藩と浪人集団の海援隊が海難事故をめぐって論争し、竜馬側が圧勝し、紀州藩が膨大な賠償金を支払った
  事故であった。竜馬が過大に描かれている司馬遼太郎の小説のおかげもあり、竜馬像をより大きくした事件でもある。

  延岡藩の資料に、紀州藩が長崎奉行所に提出した書状の写しが含まれていた。
  今回、竜馬側からの視点ではなく、紀州藩からの視点で書かれたいろは丸関係の資料を紹介する。

  また、いろは丸船将であった井上将策の資料(レポート15でも一部紹介)を紹介し、大洲藩における「いろは丸」の
  位置付を明確にする。

  延岡藩の資料に あの 坂本竜馬が登場する。

  いつもながら、延岡藩は、どういう意図があって、そして、いつ、この資料を延岡藩の資料に加えたのであろうか。


【1】序

 延岡藩の記録の中に、長崎奉行所の記録と思われるものが含まれている。レポート10での岩崎弥太郎関連の報告の基になった記録も長崎奉行所からのものではないかと思われる。今回の、「いろは丸」事件に関する資料も、その長崎奉行所記録の一部と思われる。なぜ、これらが延岡藩の記録に含まれているかは不明である。

 今回の報告を読む時に、司馬遼太郎氏の「竜馬が行く」の第7巻(文春文庫)の「いろは丸」の章を同時に読んでいただくとイメージがより鮮明になるかと思われる。但し、同氏の小説は、歴史事実を一部は基にしながらも、本質的に小説(フィクション)であることに注意しなければいけない。坂本竜馬を中心にしてヒーロー像を面白く飛躍させたいという意欲(希望)によって書かれているので、事実に反することも多いのである。

【2】 いろは丸とは

「いろは丸」は、伊予国の大洲藩(6万石 藩主 加藤泰秋)が、慶応2年(1866年)8月に長崎にて、購入した蒸気船(スクリュー船)である。下に船の仕様と概略図を示す。
  長さ  : 30間(55m)
  全幅  : 3間(5.5m)
  深さ  : 2間(3.6m)
  総トン数: 160トン
  馬力  : 45馬力

3万4000両で購入。
マスト3本であり、帆走も可能である。
いろは丸の仕様 いろは丸と思われる絵図面
インターネットで見つけました) 

この船には、色々ないきさつがある。
先ず、購入時において、大洲藩の郡中奉行であった国島六左衛門井上将策(本レポート15に、船長として登場)が、長崎に武器を購入に行った際、薩摩藩の五代友厚のすすめにより(坂本竜馬は関与していなかったのではないか)、どうした訳か、3万4000両で、この軍艦の購入を決めている。

長崎から大洲藩長浜港への移動には、坂本竜馬の亀山社中の手を借りている(船員を連れていっていない訳だからそれは有りうることである)。同年12月に、正式に同藩の町人の所有ということで幕府へ届けている。

その直後、大洲藩の船乗りが乗って、長崎に戻った直後に、長崎で国島六左衛門が割腹自殺をしている(慶応2年12月25日)。
同藩は、船の購入代金の支払いが滞り、彼が、支払いの延期願をしている最中であった。延期を認めてもらう代わりに、更に500両の利子分を上乗せを認めている。

この頃、坂本竜馬が「いろは丸」を、1航海500両で借りたいと申し出て、同船としては、初めての貸出し仕事として長崎から大阪へ出航したのである。この500両という数字が同じであるというのは偶然だろうか。国島六左衛門の割腹と無縁には思えないのである。

竜馬が、「いろは丸」を借りて、長崎から大阪に向けての最初の航海の途中、現広島県と香川県の間の瀬戸内海で、紀州藩の船「明光丸」と衝突して、その結果、「いろは丸」は瀬戸内海で沈没してしまった。慶応3年4月23日の事である。その後、紀州藩の茂田一次郎が長崎奉行所に訴えて、日本最初の海難審判事件となって行くのである。

【3】 「いろは丸」事故の後


 土佐藩の後藤象二郎が出てきて交渉し、事故から1カ月後に、土佐藩に紀州藩が、莫大な賠償金(8万3526両)を3か月以内に支払うことで取り敢えず決着している。ところが、その後、再交渉が行われ、結局、7万両(現在の貨幣価値では、60億円〜70億円程度)に落ち着き、慶応3年11月7日に長崎で支払われている。

「いろは丸」は、高額の武器を運んでいたと主張し、船だけでなく荷物分も含めての高額な賠償金を得たのである。しかし、最近(2006年)、沈没している「いろは丸」を調査したところ、そのような武器のかけらもなかったのである。

賠償金のゆくへが不明

紀州藩から、土佐藩に長崎にて7万両が支払われているのであるが、その後、その金がどこに流れて行ったかが不明なのである。可哀そうなことに、大洲藩には、金が支払われていないようなのだ。土佐藩→海援隊→大洲藩 の流れのどこかで誰かが甘い汁を吸っている。

交渉に後藤象二郎と岩崎弥太郎が出て来ているところを見ると、この二人か、あるいは、海援隊が怪しい。支払われた1カ月半後には、鳥羽伏見の戦がおきて、幕府が倒れて,天下は混乱の中に入る。そして、明治時代にいるや、うやむやになっていくのである。(資料ー4参照)

そして、賠償金が支払われた8日後の11月15日に、坂本竜馬は、京都の河原町の大江屋で暗殺されている。

「いろは丸」関係の年表を右に示す。


また、衝突事故のもう一方の当事者である紀州藩の船、「明光丸」について、仕様を以下に示す。

  長さ  : 42間(76m)
  幅  : 6間(11m)
  深さ  : 3間半(6m)
  馬力  : 150馬力
  総重量 :887トン
  鉄製
  スクリュー船

「いろは丸」に対して、長さ、幅ともに約1.5倍のサイズになる。右図でその大小関係がわかる。
紀州藩がグラバーから15.5万ドルで購入したもの。
その後、明治時代に、三菱の所有となった。

  明光丸の仕様(いろは丸記念館にある明光丸(左)といろは丸(右)の衝突予想図だそうです。
インターネットで見つけました) 

【4】 延岡藩の資料

一方の当事者である紀州藩の「明光丸」には、紀州藩勘定奉行の茂田一次郎がトップとして乗船しており、軍艦購入の為、長崎へ向かっていた。そして、備後国(広島県)六島付近で「いろは丸」と衝突したのである。いろは丸事故は、坂本竜馬が「いろは丸」に乗っていたこともあり、どうしても、「いろは丸」側からの記述が多い。延岡藩の資料に残っている今回の資料は、紀州藩側の資料なのである。紀州藩の勘定奉行だった茂田一次郎が長崎奉行所に差し出した事件の経緯を示したものである。この後、奉行所を巻きこんでの紀州藩、土佐藩との間での強力な主張が戦わされるきっかけとなった資料である。

大意は、
「紀伊殿の明光丸は、当月二十三日に、塩津を出帆。
 同夜 備後の国の六嶋の近くにて、蒸気船とすれ違いの節、何れの方に誤りがあったのか、わからず、最終的に決まってはいない。

 別紙 の絵図面の通り、計らずも 突当たる。
 何れの船なのかと 尋ねたところ、土州藩の借り船「いろは丸」の由にて、破損状況は絵図面の通り。 

結果の控えとして、見分しようと、早速、借船をもって、乗組(員)の有るのは、士官水夫は 二十三人、外に土州藩 才谷梅太郎 上下三人。
備船の男女九人と手廻りの荷物を明光艦に 積取した。猶、 出船において、いろは丸を地方へ 引き寄りしたが、途中、終に 備中の宇治島の辺りで 右船が沈没してしまった。

明光艦は、ひと先ず、備後 鞆津へ碇泊し、右人数と手廻り荷物などを陸揚げするよう 取り計らった。
尤も、前件の節、明光艦の方にも、破損が出来た。それで、長崎にて 事件調査の傍ら、その儘にして、当湊(長崎)へ、乗り廻りする件を、土州藩才谷梅太郎に 何度も、依頼を為し、乗組員の内 二人を、(長崎に行く)船に便乗させ、
去る二十七日、同処(鞆浦)を出帆し、今日、当湊(長崎)へ急仕儀となりました。

此の段 取り敢えず 御届を 申し上げます。以上

        四月二十九日     紀伊殿家来   茂田一(次)郎 」


坂本竜馬がどこに出てくるか?この訴状に2度出てくる唯一の人名「才谷梅太郎」こそ坂本竜馬なのである。土佐藩側のリーダーであることが分かる。
(紀州藩が)彼に、何度も、長崎奉行所で決着をつけようと申しこんでいる様子が分かる。また、竜馬たちは、浪人集団ではなく、土佐藩のものであるということであるから、紀州藩としても、無視できなかったのである。いかに坂本竜馬の口が立っても、浪人とわかっておれば、一笑に付されて終わったことだろう。

この資料で、よくわからない記述が出てくる。事故の後、いろは丸が沈没したので、いろは丸の乗組員(23名)と土佐藩武士(3名)と備船の男女(9名)の計35名を明光丸に載せて、もよりの鞆浦港へ寄るというのである。備船が何なのかはよく分からない。いろは丸の他にもう1隻、付いていたということか?また、種々の文献では、鞆の浦に上陸した海援隊は、計34名という。今回の資料では、35名になっている。しかも女性が乗っていたことになっている。女性は1人で、手伝いか何かで海援隊とは異なる扱いだったならつじつまは合うが、どうだろうか。 また、司馬氏の小説では、竜馬が長崎に着いたのは5月13日になっているが、実は、4月29日であることが分かる。

【5】 「いろは丸」内の規則

司馬氏の小説では、大洲藩には船乗りはいないかのような記述があるが、そんなことはない。井上将策が、きちんと船員教育をしている事を示している。延岡藩にのこる船将(船長)井上将策へのヒアリング記録=「大洲蒸気船いろは丸船将 井上将策 より 聞き書き」の一部を示す。
   
  資料表紙  ヒアリング一部 (p2〜p3)  

大意は、
「   帰船致すべき事
1. 夜中は、八時限り 通船の為、引取り候、又、出船の前の夜は 格別の事
1. 毎朝毎夜 八時 人数 相改め候こと
1. 人数 相改め候たび 夜分は、八字(時)三十分に当番、士官水夫 相連れ 船中 見廻りの事
1. 休日は、朔日 と 五節日のこと
1. 飯鋳を打ったらば、一統 揃って、集まること
1. 船中 婦人は、堅く 居立ち入りは申すまじき事
1. 船中にて、木靴 禁改のこと
1. 水夫 間費は、一年に2度、新たに見直してから渡す、沓は、1年に1足遣る事
1. 夏大暑中は、午後一時に 休みなす事。但し、当番は、代わり合い、休むこと
1. いろは丸は、軍船 商船 兼ねる事ゆへ荷物出入り等 働くよう 心得て 致すべきこと  」

 
この井上将策へのヒアリングは、同規模の藩である大洲藩へ西洋軍艦を持つ心構えを知りたかったものと思われる。長い資料であるが、ここに2ページから3ページを示した
大洲藩は、船乗はいなかったようなことが司馬氏の小説には書いてあるが、そんなことはない。井上将策を始め、船員教育はしている様子が分かる。

また、この部分だけを読んでも、いくつかのことに気づく。
@「いろは丸」は女人禁制なのであるが、「いろは丸」事故の所で記した様に、備船に男女9人を載せて、居たのである。
  少なくとも一人は女性だったことになる。別の船だから良いのか?
A「いろは丸」は、軍船であり、且つ、商船であると明言してある。「いろは丸」の活用法を知る上で重要な記述である。
  尤も、最初の貸し出しの商業航海で沈没したのだから不運な船である。
B面白いことに、時刻表示は、西洋式になっている。例えば、8時30分というように。教育を受けている証拠である

【6】 後日談

(1)坂本竜馬殺害の犯人は? 紀州藩か、井上将策か?

勿論、誰かは不明なのであるが、竜馬を殺害したい人物として、紀州藩か、大事な船を沈められた井上将策が疑われることもさも有りなんと思うのである。賠償金の支払いの8日後というタイミングが臭い。海援隊士たちは、竜馬暗殺犯を紀州藩と決めつけて紀州藩士を襲っている。また、殺害犯の中に愛媛県松山付近の方言を話す者が居たという証言から井上将策が結びつけられているのである。

(2)紀州藩内で、処罰は行われなかったか?

交渉により最初の妥結案が出た後、紀州藩内では、当時の紀州藩側の責任者である勘定奉行の茂田一次郎が更迭(蟄居謹慎)されて、別人(岩橋轍輔)が再交渉にあたることとなった(7月20日)。その再交渉の結果、先に示したように、7万両で最終妥結し、実際に支払われている。紀州藩内では、それ以上の処罰は無かったようである。

【7】参考資料

1) 延岡藩資料: 1-29-305-5 
2) 延岡藩資料 : 2-10-260:「大洲藩蒸気船いろは丸船将軍井上将策」
3) いろは丸記念館所蔵のいろは丸と明光丸の衝突予想図
4) 「共同研究坂本竜馬」=新人物往来社
5) 「いろは丸事件と竜馬―史実と伝説のはざま」=鈴木 邦裕著=海文堂出版
6) 「竜馬がゆく」から「いろは丸」=司馬遼太郎著=文春文庫7巻



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