明治1年から4年の延岡藩=軍艦購入

No.15> 明治1年から4年の延岡藩

 

    軍艦購入して藩の海軍増強

今回のトピックス

  明治元年から4年の廃藩置換までの間は、歴史書でも扱われることが少ない時代である。
  政権が徳川幕府から朝廷へ変わったが、それ以外は、今までと余り変わらない。今後も変わらないと考えた藩も多かった。

  延岡藩は、軍艦を米国から購入しているのである。この事実は、なかなか象徴的である。
  今後も、維新前だけでなく、この時代を含めて資料を見ていく予定である。  (2014.1.31)

  顕光丸の北海道巡航記録を追加した。(2014.4.24)


【1】明治元年〜4年になって

徳川幕府が終わった。その時、薩長以外の主力組でなかった小藩はどう考えたか。その典型である延岡藩はどう考えていたか。
徳川家に替って 、朝廷が中心の政治形態となった。延岡藩等は、今まで、徳川へ向いていた顔を、朝廷へ向ければよいという程度にしか考えていなかったのではないか。延岡藩は、今後いわば朝廷の譜代大名として生きていこうと考えたのであろう。明治1年から4年ごろの間は、明治維新をその程度の異変と考えていたであろう。日本中のほとんどの藩がそうであったろう。

明治1年から4年の廃藩置県までの延岡藩を1つの典型として、日本の小藩の意識を探りたい。今回だけのレポートではなく、今後も、種々の視点で、この時期を解析していくつもりである。
この時期の年表を改めて示しておく。

今回は、この時期に、延岡藩が軍艦を購入しているという点に注目する。まだ、藩レベルで軍艦を用意すべきであるという意識は、今までの藩体制の本質は変わらないという意識の証左である。延岡藩は、今度こそ、武力をキチンと備えて、倒幕時の薩摩、長州や土州の様に強くしておこうと考えたのである。次に起きるかもしれない異変に対処しようと考えたのである。

延岡藩は、明治元年12月に、米国から軍艦を購入したのである。先にも報告したように、延岡藩は、鳥羽伏見の戦(明治元年1月)から、名誉回復(5月)、そして戊辰の役と転戦して、藩士たちは、やっと11月に延岡に帰れることになった。そして、その年の12月に、軍艦を購入していたのである。軍艦をもって、藩の発言力を増そうと考えた。しかし、大久保や西郷の考える国家像にとても及んではいないのである。

【2】延岡藩は軍艦を購入

 明治2年4月15日に、その軍艦「顕光丸」が品川に寄港するので、新政府に許可願を出している。その願いに顕光丸の素性も示されている。
備後守 所持之帆前船、此の度 品川 入港仕り候に付き、
御鑑札 船章 御渡し成り下され候様 仕り度、この段願い奉り候 以上
4月15日
  内藤備後守 家来
   成瀬老之進

訳は、
「備後の守(内藤政挙のこと)の所持の帆前船をこの度、品川に入港させますに付き、 御鑑札と船章をお渡し下さる様、お願い申し上げます」

そして、船の素性は、
西洋紀元 1858年製造、我が明治元年12月8日、於摂州神戸、米国人モースより買い入れ申し候 以上。

   覚
帆前船
船号  原名チレイ 和名 顕光丸
    木製
    但、大砲2門 6斤鉄 ( 注>3.6kg) 
加農  (注>カノン砲)
長さ   19間4尺  (注>35.75m)
幅    4間3尺3寸  (注>8.27m)
水入深さ  1間3尺9寸  (注>3m)
荷積高   4百頓  (注>400トン)
櫂     2本

 但し、数字は洋数字にかえ、寸法等は、後ろに注>として、現代単位で換算した数値を併記している。又、送り仮名を入れた。

延岡藩は、新政府が成立した後に、軍艦を購入しているのは、軍艦で、延岡を守る、延岡藩の為に戦う、などであろう。これからの時代は、それぞれの藩で小さな軍艦を備えるに時代ではなくなる意識はなかった。これからの時代も、まだ、藩体制は残ると考えていたのである。実は、延岡藩だけでなく、日本中の藩の多くが、この時代に軍艦を購入しているのである。

(1)帆前船とは?

風の力を利用して進む洋式帆船で、和式帆船に対するもので、特に幕末期に称された。当時の軍艦は、蒸気船だけでなく、帆船も珍しくなかった。当時の同程度の大きさの帆船(鳳凰丸=木造船、全長40m)の写真を見つけたので、右に示す。
こんな感じの軍艦であったのであろう。

(2)大砲2門あり

大砲は、カノン砲(当時は、「加農」とも表した)であった。そのサイズは、六斤である。 「斤」という単位は、今は食パンの単位でしか使わないが、我々が子供の時はまだ使っていた。1斤は、160匁に相当し、現在の約600グラムで相当する。しかし、ここでは、ポンド(=453.6g)のことを指す。六斤とは、6ポンド,即ち、2.7kgを意味する。砲弾は、只の鉄の塊で、2.7kgの重量であったのである。

(3)延岡藩は、その後、軍艦を明治政府への貸し出しをしている

新政府からの依頼書が残っている
巳年(明治2年)6月13日 御達は、左の通り
其の藩 顕光丸 御用有之候条、函館表江至急差し廻し候事
但、着船上 御用筋之儀は、軍監有地 志津馬江可承合候事
                    6月 軍務官

これは、戊辰の役最後の函館の戦の戦後処理のために出陣している。
ここで、志津馬とは、人の名前なのだろう。
(追加:2014.4.24)顕光丸の詳しい旅程が分かっている。
 6月15日: 品川出港
 8月15日: 函館到着
 8月26日: 降伏人が乗り込み、函館出港
 10月12日: 品川到着
 延岡藩 公用人 片岡清一郎 の記録である。

【3】明治1〜4年ごろ、廃藩置県は想定していなかった

まして、武士まで捨てるとは考えてもいなかったろう。司馬遼太郎氏を筆頭に、坂本竜馬を過大評価する人が多い。彼は、廃藩置県や武士放棄などは想定していなかった。日本を近代国家にする、つまり、欧米列強の属国にならないためには、藩を廃し、中央集権国家を作らねばいけない、氏素性で支配層が決まる様では、人材登用ができない、その観点で武士などの特権階級を残してはいけないという明確なビジョンを持っていたのは、西郷と大久保だけだったと私は思う。

「翌(七月)十五日、右大臣以下 諸省長次官等、宮中に会して廃藩後の措置を議す。
議論紛々として決せず。隆盛大喝して曰く。若し、諸藩にして、異見を挟むものあらば、断然兵力に訴ふるのほかなしと。紛議忽ちにして止む。
(「西郷隆盛伝」第2巻 502ページ)」


西郷の一喝で、国家の大方針が決まったのである。

【4】かねてより、延岡藩は海軍力重視の姿勢だった

(1)勝海舟のアドバイス

延岡藩は、幕末時代から、明治初期にかけて、何度も勝海舟に意見を求めている。その中に、「孤憤」(元治元年=1864年)という文章が延岡藩資料に残っている。この文章は、海軍力の重要性を説いたものである。勝海舟全集を見ると、この「弧憤」は、補遺として収録されている。当初は、見つかっていなくて、後で追加された文章である。この文章は、山形県遊佐町で発見されたものであるが、同町は、勝海舟の弟子で、後に、日本で最初の鉄道敷設に尽力した佐藤政養の出身地である。多分、佐藤政養が、勝海舟からもらってきたものであろう。

全集に収録された文章と今回、私が見つけた延岡藩の資料を比べると、延岡藩の資料の方が、より完全に近いのである。全集の方は、明らかに、いくつかの単語が抜けている。延岡藩の資料が先に見つかっておれば、より完全な文章が収録できたのにと残念である。勝海舟と延岡藩については、別のレポートで触れる積りなのでこれ以上は述べない。
この「弧墳」などから、延岡藩は海軍力の必要性に気付いていくことになったのであろう。

(2)大洲藩のいろは丸の船長である井上将策へヒアリングをしている

もう一つの海軍力への関心を示す資料が、「大洲蒸気船いろは丸船将井上将策より聞き書く」である。
資料の表紙添付資料1ページ目=船号シーホルンに関する部分

この資料は、大洲藩に於ける、洋式軍艦を持つ藩の心得や、船内の規則などをヒアリングしているのである。また、33ページにわたる長い史料であるが、その巻末に、その当時、売りに出されている西洋軍艦のリストが載っている。購入する船を探していたことが伺える。

全部は示すわけにはいかないので、船号=シ―ホルンの分だけを参考に載せた。その他の船も含めて、検討していたと思われる船の情報の一覧を表にまとめた。寸法などの単位が種々混じっているのは、現資料の通りである。船の製造年と年数から、この資料を作ったのが慶応2年(1866年)末であることが分かる。

「いろは丸」に関して、次のレポートで触れる積りである。また、井上将策のこと、また、ヒアリング結果は別のレポートにまわす。

しかし、ここで、最小限の事を示しておかねばならない。「いろは丸」というのは、大洲藩の所有の船であるが、1回だけの契約で、坂本竜馬の亀山社中に貸し出したら、紀州藩の明光丸と衝突し沈没したその船である。そして、日本最初の海難審判となり、坂本竜馬が莫大な賠償金を獲得したことでも有名である。

また、この井上将策という人は、大洲藩の藩士で、国島六左衛門と2人で、鉄砲を買い付けに長崎に行き、代わりに、このいろは丸を購入した当人である。また、坂本竜馬を殺害した疑いのある人物の一人でもある。
また、この資料に明確にあるように、井上将策が「船将」を勤めている。司馬遼太郎氏の小説では、大洲藩には、船将ほか船乗りはいなかったようなことが書いてあるが、それは間違いである。

勝海舟の資料が、元治元年(1864年)、井上将策へのヒアリングが、慶応2年(1864年)、そして、延岡藩が実際に軍艦を購入するのが、明治元年(=慶応4年=1866年)なのである。数年前から検討して事が分かる。
資料として、船号=シ―ホルンの分だけを示したが、他に資料に残っている船も一緒にリストにした

【5】資料

1) 宮崎県通史=別編=維新期の日向諸藩=p75
2) 宮崎県通史=別編=維新期の日向諸藩=p58
3) 内藤家資料2-10-260=「大洲蒸気船いろは丸船将井上将策より聞書船中の定」
4) 内藤家資料2-10-12=「孤憤」=安房の守勝義草=勝海舟が海軍の重要性を説く=文久元年



このページの先頭に戻る→ 

メインページへ戻る

 このレポートへの御意見をお聞かせ下さい。
    内容に反映させたいと思います。

    また、御了解を頂けたら、
     御意見のコーナーを作りたいと思います。

     どのレポートについての御意見なのか一筆の上、
   メールはこちらから御願いします。

  e-mail : ここをクリックして下さい
      




inserted by FC2 system