錦章の拝領願い=官軍になりたい

No.14> 錦章の拝領願い

 

    官軍の証が欲しい延岡藩

今回のトピックス

  鳥羽伏見の戦では、延岡藩は、幕府側につきました。しかし、すぐに、九州各藩にとりなしを依頼し、家来、及び藩主自らも
  弁解を行い、嫌疑は晴れ、官軍側として賊軍追討に加わりました。

  ひとまず、会津藩の降伏により、延岡藩は国元へ帰れることになった。
  そこで、官軍の証である錦章の拝領を願い出た。官軍である証が欲しかったのである。  (2014.1.9)


【1】 鳥羽伏見の戦いと延岡藩

 鳥羽伏見の戦いは、延岡の幕末史にとっても最大のエポックである。すでに、いくつかの研究報告はあるが、大きい事件であるし、また、新規な視点も加えたいので、鳥羽伏見の戦自体に関するレポートは、また、別の機会とさせていただきたい。

ここでは、鳥羽伏見の戦の結果に、延岡藩が翻弄させられる処から進めたい。そのために、鳥羽伏見の戦について、最小限、必要事項だけを述べたい。

鳥羽伏見の戦いは、慶応4年(=明治元年)の1月3日から6日の間に、幕府の決定的な敗北で、これで、江戸時代から明治への移行が決まった戦いである。戦自体はある種あっけないものだった。
圧倒的な陸軍、海軍の戦力を持ちながら、幕府軍は、寄せ集め軍隊で、統率の出来ていない上に、軍備も古臭いものが多いというのもあったが、最大の原因は、どうしても徳川体制を転覆したい薩摩藩中心の倒幕派に対し、幕府側の守りたいという意識が低かったというのが最大の敗因ではなかったかと私は思う。どうしても、幕府体制を残さなければいけないというモチベーションが欠けていたから、戦略も乏しかったと思う。

幕府軍は、大阪城に指揮官の慶喜を置き、大阪から京都へ上り、京都の入り口に近い、鳥羽と伏見付近で戦ったが、あっという間に、大阪の方へ押し戻されてしまった。まして、6日に、慶喜が夜間、こっそり大阪城を抜け出し、江戸へ逃げたのだから、兵士の士気が上がるはずはない。こうして、幕府側の敗北が決定した。

 延岡藩は、というと、藩主政挙は、延岡にいて、大阪には、2人の家老が率いる2つの組(当時の延岡藩の軍団は、4人の家老がそれぞれ率いる軍団という形だった)がいるのみだったが、彼らが、幕府重役である大目付の戸田伊豆守の指示で、後方の野田口の警備を仰せつかった(内示は、慶応3年12月27日だった)。延岡藩は、結果的には、実戦はしなかった。

しかし、幕府側に付いたということで、1月10日に、新政府から糾弾の判断が出た。延岡藩は、取り潰しになるかも知れないと恐れ、可能な限りのとりなしを頼みこむ。そして、最終的に、殿様は国表にいて、家来の軽率な行動ということでお許しが出た(5月10日)

   鳥羽伏見の戦を中心にした年表を右に示す。

【2】延岡藩に賊軍の疑い(慶応4年=明治1年)

日州 延岡藩に嫌疑がかかる。鳥羽伏見の戦いの直後の、1月10日に、新政府側から幕府側に与した重役、各藩主に、5段階の処罰の判断が下る。

1番目に重いのが、新政府に敵対した慶喜をはじめ、幕府の連中である。
2番目が、新政府に敵対した、親慶喜一派である。会津松平容保、桑名松平定敬、達である。
3番目が、藩主が大阪にいて、幕府軍に人数を差し出し、政府軍に発砲し、慶喜の東帰に従ったもの

4番目が、藩主が、大阪にいて、出先の家来が、不心得から新政府軍に立ち向かったが、慶喜追討令に対し、すぐ、帰国し、不心得の家来を謹慎させ、藩主自身が、上京し、謝罪したものである。

5番目は、藩主は、在国であるが、滞阪の家来が、不心得で発砲したもので、速やかにその家来を謹慎させ、藩主自身が上京し、幕府追討の先鋒を申し出て謝罪したもの


実は延岡藩は、4番目の嫌疑がかけられたのである。しかし、どちらかというと、5番目に入るべきである。藩主政挙は、当時、延岡にいたのであるから。
図2)鳥羽伏見の戦で幕府側の嫌疑

延岡に対する処罰の部分(4番目に相当する)を、赤い四角で囲っている。日州(日向の国のこと)延岡の記述が見える。
そこの大意は、

「右、御不審の次第 これ有り候につき、入京は、止められ候事」(資料ー1)

実は、4番目、5番目は何れにしても、罪が軽く、新政府は、この連中から、謝罪があれば、初めから許す積りであったようだ。
延岡藩は、九州の各藩の口添えを依頼したり、家老たちの必死の弁明により、賊軍の汚名をかけられずに済んだ。
しかし、居心地の悪さは残る。何とか正真正銘の官軍があるとして認められたいと、官軍側の仕事を積極的に希望している。汚名を注ぎたいの一心であったろう。

【3】 錦の御旗

鳥羽伏見の戦で最後のとどめを刺し、例え話でも出てくる「錦の御旗」(別名 錦旗)は、鳥羽伏見の戦の前年の、慶応3年10月6日に薩摩の大久保利通(当時 一蔵)と長州の品川弥二郎が、岩倉具視宅を訪問し、王政復古の作と練っていた時、岩倉が、かねて国学者の玉村操に作らせていた錦旗の図面を示し、その製作を大久保らに依頼した。

この錦旗は、この時が初めてではなく、「太平記」にも表れているものであるが、実物は誰も見たことがないものだった。玉松操が大江匡房の「皇旗考」を参考にデザインしたものであった。
大久保は、帰宅して、大和錦と紅白の緞子を買い込み、品川がそれを持って長門に帰り、「日月の錦旗」を各2旒、「菊花章の紅白」の各10旒製作した。半分を山口城に、残り半分は京都の薩摩藩邸に隠していた。

戦況が新政府軍に有利に進んでいた、1月5日の朝、その薩摩藩邸にあった錦旗を、持ち出したのであった。大久保の指示であったろう。
戦場に持ち出された錦旗は、金で日輪の図柄のもの(写真参照)と、銀で月輪の図柄の縦長のもので、それが、左右一対の形で、列の先頭に立っていたのである。

 前日、征討代将軍に任ぜられたばかりの仁和寺宮を引き出し、そこに錦の御旗を先頭に、そして、護衛の薩摩藩士の高崎右京は、白熊の毛の兜をかぶって御側に従っていた。それは、派手で、見る者に強い印象を与えるに十分の御膳だてであった。これで、薩摩藩側は「官軍」であり、幕府側が「賊軍」に決定した瞬間であった。

前線の薩摩藩士たちの士気は上がり、幕府側に動揺が走った。そして、最も動揺したのが、大阪城にいた徳川慶喜であった。彼は、水戸出身であり、自他ともに認める「尊王派」であったのに、自分が反朝廷派の頭目となったのである。

【4】 延岡藩は官軍の証拠が欲しかった。

この錦旗は、官軍と賊軍を区別するものだったのである。鳥羽伏見の戦いで賊軍側の様なふるまいをした延岡藩にとっては、官軍になりたかった。いわば、「遅れてきた」官軍であるという後ろめたさがあったに違いない。延岡藩は、先の年表で示したように、身の潔白が決まった直後、官軍側で山梨を転戦し、江戸の守備を担当したが、やっと、11月に故郷に帰れるようになり、解軍となった。

その時、延岡藩は、錦旗ではないが、官軍の証拠である錦章と印章を、払下げしてくれるように依頼して、認められたのである。その、正式の返事となる札を、依頼書(の写し)に糊で貼り付け、印を押しているのである。余程、うれしかったのであろう。この嘆願書は個人名で出したものであるが、内藤家の正式書類に残っているのだから、延岡藩の依頼と考えてよいだろう。

図4)錦章の拝領願いと許可の返事

この嘆願書の大意は、 
「兵隊に御渡しになっています
御印章
御錦章 などを、 兵隊が この度 帰国することになりましたので、本来なら、御返しすべきところではありますが、 そのまま、御拝領いただきたく、お願い奉ります。以上
11月晦日(みそか)
    延岡藩
       羽生牧之進
       井上波蔵」

(新政府からの返事)「 願いの通り、下扶される 」(資料―2)


【5】錦章、印象とは何か?

次の写真を見てほしい。鳥羽伏見の戦いに参加した延岡藩の武士の写真である。特に、右の主は延岡藩家老の大島味膳である。この大島味膳は、後の西南の役でもう一度歴史に顔を出す運命にあるが、それは、後のレポートにまわそう。(資料−4)
図5)鳥羽伏見の戦後の戊辰役に参戦した延岡藩士。右は、家老の大島味膳

また、ベアトの取った薩摩藩士の写真も有る(色づけがなされている)。
図6)ベアトの撮った薩摩藩士

彼らの右袖か、左袖に2枚の布が縫い付けてあるのが分かる。サイズは、15cm×5cm程の長方形で、一方は、赤い錦地の布である。それが、錦章である。その錦章と共に、同サイズの白地の絹布が重ねて縫い付けてある。それは、所属部隊の印が押してある。それが、印章である。この2枚を一緒に付けることがきめられていた。2枚一緒にするようになったのは、幕府軍側にも、錦章の様なものをつける者が出てきたため、それらと区別するために更に印章をつけたらしい。

【6】資料

1) 内藤家資料:1-11-129=滞阪日記(慶応4年1月)
2) 内藤家資料:2-10維新-263=御錦章拝領願
3) 内藤家顕彰会会誌「亀井」(平成19年)「士族残照」(大島正虎著)
4) ベアト写真



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