イギリス公館と延岡藩(3)

No.13> イギリス公使館と延岡藩(3)
     生麦事件

今回のトピックス

  延岡藩が、イギリス公使館のある東禅寺の護衛を始めて1カ月後に、横浜で、薩摩藩士が、イギリス人を切るという
  有名な生麦事件が起きました。イギリス公使館の護衛に緊張が走りました。その様子が、延岡藩の藩邸側の日記に
  生々しく残っています。

  生麦事件の2日後に、警護を心配した幕府は、増員するように、延岡藩など3藩に打診していますが、もうこれ以上の
  増員は無理だと、3藩は相談して、幕府に再考をお願いしています。

  この生麦事件をきっかけに、そのすぐ後に薩英戦争が起きていますし、高杉晋作達が、新設中のイギリス公使館の
  焼打ち事件も起きています。イギリスを中心に、江戸は騒然としています。  (2013.12.18)


【1】生麦事件とイギリス公使館焼打ち事件

(1) 生麦事件

文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光が薩摩へ帰国中の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件がおきた。これを生麦事件という。

 8月23日に、ニール代理公使は横浜において外国奉行津田正路と会談し、この会談でニールは「勅使の通行は連絡があったのに、なぜ島津久光の通行は知らせてこなかったのか」と追及し、本国の外務大臣への報告書にも、久光通行の知らせはなかったことを明記している。

8月30日には、ニールと老中板倉勝静・水野忠精との折衝が行われ、ここでもイギリス側は犯人の差し出しを繰り返し要求した。一方、ニールは本事件の賠償金要求については、イギリス本国の訓令を待って交渉することとしていた。賠償金でもめて、決着をみないまま、イギリスの薩摩との直接交渉へ進み、薩英戦争へとつながることとなった。

(2)薩英戦争(文久3年7月)

幕府との交渉に続いて、イギリスは薩摩藩と直接交渉するため、文久3年6月27日に軍艦7隻を鹿児島湾に入港させた。しかし交渉は不調であり、文久3年7月2日、イギリス艦による薩摩藩船の拿捕をきっかけに薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃、薩英戦争が勃発した。薩摩側は鹿児島市街が焼失するなど大きな被害を受けるが、イギリス艦隊側にも損傷が大きく、7月4日には艦隊は鹿児島湾を去り、戦闘は収束した。

(3)イギリス公使館焼打ち事件

その御殿山のイギリス公使館も、1863年(文久3年)1月31日に建設中のものが長州藩の高杉晋作らによって焼き討ちされてしまった。
隊長:高杉晋作
副将:久坂玄端
火付け役:井上聞多、伊藤俊輔、寺島忠三郎
護衛役:品川弥二郎、堀真五郎、松島剛蔵
斬捨役:赤根武人、白井小助ら
結局、東禅寺はその後も、明治6年(1873)頃までイギリス公使館として使用された。
図1)外国との接所の歴史

【2】 延岡藩の東禅寺(イギリス公使館)警備

(1) 文久2年7月15日 警備を拝命

第2次東禅寺襲撃(文久2年5月29日)の直後である。3度目の襲撃を当然意識し、警備には緊張が高まったことは容易に想像できる。

(2) 生麦事件(文久2年8月21日)

先にも示したように、イギリス人が島津藩主の鹿児島へ帰る途中の大名行列の前を無礼に横断したことから、イギリス人がまたも切られた。
その生麦事件の直後の8月23日の延岡藩の騒ぎぶりを示す日記がある。
図2)8月23日の警護日記から(1)

大意は、
「8月23日 晴れ 風

1.外国奉行の竹本隼人正様に 
「イギリス人宿寺の東禅寺の警固が手薄なので、増員するように、指示されたましたので、そうしたい」
というのに対し、左の書面を、戸田采女正様 本多伯耆守様 の家来衆と三者で申し合わせに、一同で、参加し、今朝、 老之進が 伺書を 御用人の中村興四郎に 面会し、 差し出しましたところ、受領されました。

 左の通り
イギリス人宿寺の東禅寺の警固は、 甚だ 手薄にて 心配ですので、 今回、両置き奉るも、増固を仰せつけられるとは、一切、厳重な状態になっておりますから、その点を申しあげましたところ、猶また、見廻りの様子を詳しく述べよということですが、狼藉者が多いか少ないか、強いか弱いか 」
図3)8月23日の警護日記から(2)

大意は、
「等の事も有ります。どれほど、増員すべきか、と言う点も有りますが、取押え方等が、 相談なしに決行することは無いけれども、
以前も申し上げました様に、同寺の境内は、殊更に 手広い処で、 囲い等は、手薄なので、狼藉は 容易に 乱入も出来る様に見えますので、万一多勢が、押し入りました時は、取押え方も、当然、行き届かない場合も 出来ますが、何度も書状がきましたが、
かねて、申し上げました様に、(我々は)精一杯の人数を差し出しておりますので、ここで、更に、これ以上の人数を差し出す様に、謂われるのではないかと心配しております。なにとぞ、増員するかどうかをお考えの時、この点をよくお考えの上で、指示を出す様にお願いします。

   戸田采女正内(家来)」


2回の東禅寺襲撃と、2日前の生麦事件が、立て続けに、イギリス人が攘夷の対象となったのであるから、幕府は、さらに警護の人員のを増やしたいと考えて、三藩に増員を打診したのであろうが、延岡藩だけでなく、それぞれ、100名近い人員を提供している三藩とも、それ以上の増員は、断らざるを得ない状況なのであろう。
ぎりぎりの状況で、外国人警護をしているのがわかる資料である。

【3】資料

資料1)内藤家資料:1-9諸覚書書類―22=江戸万覚書ヲ姑クココニ収ム


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