No.12 イギリス公使館と延岡藩(2)

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 実際の警護

今回のトピックス

  延岡藩が東禅寺にある「イギリス公使館」の警護の任に着くことになりました。
  外国方から、服装、提灯、警備に着く時の武器、等々の指示が次々に来ます。
  そして、毎日、「合言葉」の指示がきます。とてもかわいい合言葉です。

  ちょうどそのころ、イギリスの写真家ベアトが、東禅寺の様子を多くの写真で残しているのですが、そこに写っている
  武士の服装が、日誌にある服装と酷似なのです。写っているのは、延岡藩士の可能性があります。

  薩摩藩士が、イギリス人にちょっかいを出しているという記述もこの日誌内に残っています。
  薩摩藩士がイギリス人を切り捨てた生麦事件の1か月前のことです。  (2013.12.14)


【1】東禅寺の写真

以下の写真は、すべて、幕末期の文久3年(1862年)に、日本にやってきたイタリア生まれのイギリス人写真家、フリーチェ・ベアトによるものである。彼は、訪日すると、精力的に、日本各地の庶民の生活風景から、幕末の事件現場まで写真を撮って回った。
図1の写真は、文久3年(1862年)当時の東禅寺の庭先でのんビリする武士の様子であるが、ここに写っている武士は、延岡藩士かもしれない。次の図2の写真は、当時の東禅寺の山門である。ここにも護衛の武士が写っている。

 
 
図1)東禅寺庭=ベアト撮影(文久3年)図2)東禅寺の山門=ベアト撮影(文久3年)

3枚目と4枚目は、外国公館の護衛をする武士の様子である。軒の形から、同一場所と思われる。そして、正確ではないが、この寺は、東禅寺ではないか?
     
図3)(東禅寺前?での)警備の武士たち図4)同じ建物の前で警備の武士と公使館員

これらの写真の武士の服装に注意して欲しい。

【2】東禅寺警護の武士の服装

延岡藩が東禅寺の護衛命令が出たのは、先のレポートに示したように、文久2年の7月15日であった。警備に付きに当たって、外国方から服装、持ち物に付いて、指示が出ている。東禅寺警護日記に絵入りで説明がある。

(1)陣羽織=図5と図6

東禅寺護衛の指示が出た2日後の7月17日の日記に、外国方から、服装の指示が出ている。           
     
図5)陣羽織図6)足軽用羽織図7)提灯図8)合言葉の例

大意は、
「異変の節に、御用で警備に付くときは、紋は黒で、地は白(にの羽織)にするように。」
上の警備に付く武士の写真に似ている。
また、
「足軽や、従者の若党用は、 地は、木綿で、 茶色地に 紋は白にすること」

(2)提灯について=図7 

同日に、各藩ごと異なる提灯を持つようにという指示がでている。図6参照。
  御用出役      : しるし=自紋
  奉行衆       :  しるし=自紋
  調役 犬塚九左衛門 :しるし=自紋
  外国方       : しるし=「外」の自

夜間、一目で見て、どの家の者かが分かるようになっている。

【3】 合言葉=合詞=図8 

外敵に対して、護衛側は、異なる藩等からなるため、顔を見ただけでは、見方かどうかはわからない。まして、深夜となってはなおさらである。そこで、合詞(合言葉のこと)が重要となる。毎日、外国方から、その日の合詞が知らされるのである。
図7は、7月17日の日記に書いてある合詞である。
 「問誰 答酒」 つまり、「誰か?」 と聞くと、「酒」と答えるのである。(図7) 以後、「玉(たま)」(18日)、「虎」(19日)、「雨」(20日)、「槇」(21日)、 「壁」(22日)、「飯」(23日)、「時計」(24日)、「笠」(25日)、「鐘」(26日)等と可愛い名前が続くのである。

【4】 武器、持ち物等の指示

3家と奉行、奉行、外国方など担当の守備範囲の名前としてに、番号が振り分けられている。延岡藩にも、場所が指示されている。例を示す。

場所=2番では、昼は番士5名、 夜は、番士7名であること
   その時、「鉄砲が、7挺」、それと「拍子木」が指示されている。
場所=22番は、番士2名と足軽2名。(夜昼の区別は不明)、
場所=25番は、足軽=2名
場所=29番は、小役が1名
場所=2番  昼番士 五人 鉄砲7挺、 
       夜番士 七人 拍子木
場所=24四番  持ち物の中に「鉄砲2挺」の他に、「太鼓」と「棹2本」

が指示してある。
  

【5】 人数

7月17日の段階で
  
重役  用人  留守居 者頭 大目付 詰人 勧定奉行 医師 徒目付 徒士 賄小役 足軽小役 足軽
人数 1人  1人  1人 2人 1人 5人 1人 2人 1人 8人 2人 5人 41人 71人

翌7月18日には、延岡藩から出している人数は、104名になっている。
この7月18日の記録にある警護メンバーに、家老の大嶋味膳、御留守居役の成瀬老之進も含まれているのである。本当の一家総出の体制での御奉公である。

第一次東禅寺襲撃のときの警護の数は、英公使オールコックによると200名いたとある。今回、延岡藩が略100名程を差し出しているということは、3藩で、300名近くの警護の人間がいたのではないか。相当の人数である。第1次、第2次襲撃後、イギリス側から、警護人を増やす様に強く要求されていたので、このような大人数での警護となったのであろう。

【6】 特別手当

 お礼なのか、延岡藩外の人へ
  金 五百疋(御調役へ)、 同 三百疋、百疋、二百疋 と与えている。
 また、東禅寺 表門番に百疋、などと続いている。

「疋」という銭(お金ではない)の単位は複雑だ。1疋=10文(幕末には25文)。1両は、4000〜6000文で変動している。幕末は、多分、6000文位ではないかとすると、100疋は、1000文であるから、1/6両。つまり、10万円/6=1万7千円ぐらいということになる。

【7】 事例

1) 「イギリス人が、寺に帰ってくる。人を差し出す様に」と云う指示があった。
緊張感が伝わってくる。
図10)イギリス人が帰ってくる

大意は、
「五時辺ごろ 左の通り 廻状が 本多様衆より 廻ってきた。
〆付きですぐ開封し、当家が最後なので、外国方お役所に 御徒士を使って、お返しいたしました。」
「今 17日朝 英国人が 帰寺いたします。それの見張りを新たに 番御人数差し出すように連絡したします
  7月17日  外国方」


2) 薩摩藩士が騒いでいる。要注意
7月23日の日誌に、
「夷人が、今朝、板倉周防守様の所に出かけた折、柴田町付近で、薩摩の士が少し乱暴の筋があった。」
と書いてある。当時は、薩摩も,攘夷派であった。生麦事件の1か月前のことである。

【8】資料

資料1) 長崎大学付属図書館幕末、明治期日本古写真メタデ−タベース:目録番号=6217 「イギリス公使館高輪東禅寺山門(4)」
   F.ベアト撮影、1863年(文久3年)
資料2) 「外国公館に夜警として派遣された役人」出典 F.ベアト幕末日本写真 横浜開港資料館刊(1987)
資料3) 長崎大学付属図書館幕末、明治期日本古写真メタデ−タベース:目録番号=6234
資料4) 1-29維新―305-5:「英国グラバ所持船買入事」(明治大所蔵)


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