イギリス公使館と延岡藩(1)

No.11> イギリス公使館と延岡藩 

 任命時のどたばた

今回のトピックス

  品川近くの臨済宗系の禅寺である東禅寺は、イギリス最初の公使館が置かれたところです。

  文久元年(1861年)5月に、攘夷を唱える水戸藩浪士に襲われた(第一次東禅寺襲撃)。
  公使オールコックは、何とか、難を逃れている。
  そして、翌年文久2年の5月に、警備をしていた松本藩士に再度、襲われた(第2次東禅寺襲撃)。

  その直後の7月に、延岡藩に「警備の指令が出ました。延岡藩の緊張は想像に難くありません。
  延岡藩は、藩邸内に、麻疹病がはやり、十分な数の警備の人間を出せない。
  「どうしましょうか」と幕府に伺いを立てるも、「やれ」の指示がでた。

  今回は、まず、最初のやり取りを報告します。東禅寺3部作の第一報です。  (2013.12.14)


【1】 外国との軋轢の年間=文久1年から文久3年

(1)東禅寺

東京の品川駅から、山手線内を北の方へ400m程進み、高輪で西の方へ路地を入ると、急に、深い緑に包まれた、東禅寺の山門が見えてくる。
この東禅寺は、臨済宗妙心寺派の別格本山で、詳名は海上禅林佛日山東禅興聖禅寺という。江戸四箇寺の1つでもある。

そして、最近の2010年2月に、境内が国の史跡に指定されている。

 
図1)東禅寺の山門図2)東禅寺の三重の塔図3)イギリス公使館碑

品川駅近くで、第一京浜(旧東海道)のそばにありながら、閑静で侵すべからずの威圧感の漂う神聖な境内には、都心では、珍しい3重の塔もある。

ここは、幕末に、最初のイギリス公使館がおかれた場所なのである。
そして、幕末期に日本での攘夷運動の高まりの中で、日本と外国の軋轢が武力衝突という形で起きた場所である。
今の静かな境内からはうかがい知ることができない騒然とした事件が起きたのである。

奥書院に通じる庫裡の入口の落ち屋根を支えている2本の柱には、当時の刀傷が残っているのを確認できる。
東禅寺は、多くの大名の菩提寺となっている。飫肥藩伊東家の菩提寺もここである。

文久年間に、海外との軋轢が集中して起きている。この時期の年表を示す。

図4)外国との接所の歴史

【2】 東禅寺襲撃事件

(1)第一次東禅寺事件(文久1年5月28日)

文久元年(1861年)5月28日夜、攘夷派の常陸水戸藩浪士、有賀半弥ら14名によってイギリス宿寺(公使館)となっていた東禅寺が襲撃される。
初代公使のオールコック
らは、前日、国内旅行から東禅寺に帰着したばかりだった。

オールコックは難を逃れたが、書記官ローレンス・オリファントと長崎駐在領事ジョージ・モリソンが負傷した。
水戸藩浪士、警備兵の双方に多数の死傷者が出た。襲撃者の生き残った者の多くは、多くは捕えられ自決した。
襲撃者の中で、血路を開いて逃れた黒沢五郎と高畠房次郎は、翌文久2年1月15日に坂下門外の変に参加して闘死している。
又、もう一人の生存者、岡見は文久3年の大和挙兵(天誅組の変)に参加して死罪となっている。


<図の説明>
第一次東禅寺事件。乗馬用の鞭で反撃するオリファント。襖の陰に隠れているのがモリソン。1861年10月12日のイラストレイテッド・ロンドン・ニュースに掲載された画だが、これを描いたチャールズ・ワーグマンも事件に遭遇している。

危うく難を逃れた公使オールコックは、後に、「大君の都」という題の本を出版している。
その中で、第一次東禅寺襲撃事件に触れている。日本の護衛隊は、敵の襲撃をオールコックらに連絡して来ないし、護衛も不十分だったと不満を書いている。

 しかし、襲撃に立ちあい、自らも怪我をしているチャールズ・ワーグマンは、日本護衛隊は十分に仕事をしたという記述をしている。実際、日本護衛隊は、多くの犠牲を払っている。

オールコックによれば、襲撃時に日本の護衛隊は200名ほどに居たようだ。
事件当時、外国方として東禅寺にいた福地桜痴が、彼が目撃した事件の概要を残している。また、後日、浪士らを撃退した警備の武士ら48名に対し褒賞が下された。

 この事件後、幕府は、イギリス水兵の公使駐屯の承認、日本側警備兵の増強、賠償金一万ドル支払い、等の要求に対し、英国との間で合意している。
しかし、この第一次東禅寺事件の後、オールコックは幕府による警護が期待できないとして、公使館を横浜に移した。
しかし、オールコックは、この事件の直後に、休暇の為、英国へ帰国しており、その間、代理公使となったジョン・ニールは、再び東禅寺に公使館を戻した。
オールコックは、その休暇滞在中に、先の大著「大君の都」を書いている。

(2)第二次東禅寺事件(文久2年5月29日)

オールコックが、イギリスに帰国中の、翌文久2年(1862年)5月29日夜に、護衛役の信濃松本藩藩士伊藤軍兵衛によって再び襲撃され、イギリス人水兵2名が殺害されたが、その時も、ジョン・ニール代理公使は、難を逃れている。
伊藤は、襲撃後、呉服橋の藩邸に戻り、藩士たちに事の顛末を語ると自刃した。伊藤は、英国に不満と云うよりは、早く松本へ帰りたいという個人的な不満で攻撃した模様である。

 幕府は、イギリス側警備兵は増強を認め、又、松本藩主松平光則に、警備責任者を処罰し、差控を命じ、イギリスとの間に賠償金の支払い交渉を行ったがまとまらず、紛糾するうちに生麦事件が発生した。

【3】 延岡藩へ東禅寺警護(警固)の命が出る(文久2年7月15日)

第2次東禅寺事件の後、8月21日に、薩摩藩士がイギリス人を切るという生麦事件が起きているが、それについては、後のレポート12で触れる。

第2次東禅寺事件(文久2年5月29日)の直後、幕府は、先の2つの事件に懲りたのか、同年7月15日に東禅寺の警護を信頼できる譜代の大名に命令をしている。
戸田采女正(氏彬:大垣藩10万石)本多伯耆守(正納:田中藩4万石)、そして、延岡藩である。
2つの事件の直後であり、3度目の襲撃も当然予想する時の警備であるから、幕府、警護の藩の緊張は予想に難くない。
延岡藩の前任者は、岡部筑前守(和泉国岸和田藩 5万3千石)であった。

(1)幕府からの命令の記録(文久2年7月15日)

幕府から、届いた書状の写しが、文久2年7月15日の警備日記の最初のページにある。
図4)外国との接所の歴史

大意は、

「7月15日 内藤右近将監

イギリス人 宿寺 高輪 東禅寺 同所続き 上洞庵に 警固のため 人数を差し出し置く様にすること。戸田采女正、本多伯耆守 宛にも 同様の書状を出している。
互いに相談すること。委細は、外国奉行から続けてあるであろう」


ところが、延岡藩には、もともと江戸に居る武士の数が少ない上に、この時期、麻疹病がはやり、寝込んでおり、十分な数を出せないと、心配して、すぐに、外国担当へ、非公式の伺い、つまり、「御内慮伺」を立てたのである。

(文久2年)7月15日、外国御掛 板倉周防守様に、次の「御内慮伺」を直井源兵衛が持参し差し出した。

図4)外国との接所の歴史

大意は、

「7月十五日 外国担当の 板倉周防守様に、以下の様に、内慮伺いを 直井源兵衛が持参し、 差出した。
 右近将監は、 イギリス人宿寺高輪東禅寺 同所続きの上洞庵に 警護固めの人出を差出すようにと云う趣旨の命が下りました。
 戸田采女正様、本多伯耆守様 宛てにも、同様の御達しがあり、互いに相談しなさいと云う趣旨でした。

 畏れ奉りますことに、江戸詰の頃、江戸表に有り合わせの人数が少ない上に、最近流行の麻疹の病人が多く出ました。
 答えることができないと心から申し訳なく思っております。
 まず、ありあわせの人数の内、探し出して、差出そうと思っております。
 右の趣 右近将監、ますます、心配になっておりますので、各様と御内慮をお尋ねいたしますので、申し付けください。以上  

七月十六日
 翌十六日 御書取(注>伺いに対する幕府の正式返答)
 内慮の趣は、成るべく大人数を差し出し候 心得よ。」


非公式に、幕府へ「どうでしょうか」と相談する伺いを、「御内慮伺」というが、それに対する幕府側の公式見解を、「書取」という。
この日の日記の次に、外国掛から届いた、公式見解である、「書取」も記してある。大名の間の書状の種類が見えておもしろい。

延岡藩は、御内慮伺いで確認してから後に、正式に伺いを立てるのである。16日に、松平豊前守に、正式の伺い書を出している。

図4)外国との接所の歴史

大意は、

「同16日に、(老中)松平豊前守様に 左の伺いを持参し、差し出します。
 私儀 この度イギリス人宿寺 高輪東禅寺 同所続き 上洞庵 警固 仰せつけられ、下屋敷より 人数を差し出しように指示がありました。
(私どもの)人数は、少ないですので、もし、 近所に出火があった時に、三町火消しに人手を出さないけども、それで問題ありませんよね。お尋ねいたします。

翌 17日に 御附札が来た。

勝手にするがよい 」


正式の「伺い」に対して、幕府からの返事が 「附札」である。
ここで、松平豊前守とは?
老中 松平 豊前守信義[1824(文政7)−1866(慶応2)]のことである。かれは、丹波亀山藩主であり、万延1(1860)12/28〜文久3(1863)9/5の期間、老中であった。

また、「三町火消し」とは、近隣の火事の時に、出す火消しの事である。自衛消防団を出すのである。

【4】資料

資料1)内藤家資料:1-29-6=英人東禅寺警固日記
資料2)内藤家資料:1-29-8=英人宿寺高輪東禅寺並同所続上洞庵警固
資料3)オールコック著、 「大君の都:幕末日本滞在記」(岩波文庫)


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