岩崎弥太郎とグラバー

No.10> 岩崎弥太郎とグラバー    

今回のトピックス

  延岡藩の記録の中に、三菱財閥の創立者、岩崎弥太郎が慶応3年に、長崎にて、グラバー邸で有名なあのグラバーから
  艦船を購入する契約書の写しが入っていたのである。延岡と何か関係があるのかと期待したが、直接の関係はなさそう。

  この契約書が延岡藩の資料に加わった経緯は不明であるある。他にも、竜馬の「いろは丸の海難事故」の記録書なども
  含まれていたことから、長崎奉行所経由で手に入れたものではあるまいか。
  何れにしても、歴史好きにはたまらない一級品の資料であろう。

  今回発見した、延岡藩の資料は、岩崎弥太郎が、長崎に赴任した慶応3年の出来事であり、その年に、彼は、土佐藩の
  貿易の窓口として、軍艦、武器を買いあさっていたのである。幕末一級の記録である。

  グラバーは、明治になると、貸し金の回収ができず、破産してしまう。彼は、岩崎弥太郎に拾われて、以後、探鉱開発など
  三菱に貢献したのである。

  今回の報告は、以後、生涯の付き合いとなる岩崎弥太郎とグラバーとの、その最初のなり初めを示すものである。
                                              (2013.12.10)


【1】今回の資料について

三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎が、長崎に於いて、土佐藩の為に軍艦、兵器を買いあさって いた時の、資料であるが、どうも、延岡藩とは関係ない資料の様である。これが、なぜ内藤家の資料の中にあるのかは不明である。幕末の延岡藩の藩士が、長崎で、写し取ったのか、それとも、明治以降に、土佐藩あたりから、改めて収集したのかは不明である。ただ、他に、大洲藩の「いろは丸」について、船長へのヒアリングや、長崎の他の情報なども含まれるから、長崎付近で手に入れた資料と思われるが、土佐藩にとってかなり秘密性の高い情報であり、この資料は、慶応3年のものである。その当時の延岡藩は、徳川方についた第二次長州征伐の年であり、また翌年の鳥羽伏見の戦でも徳川方についているのだから、敵方の土佐藩の情報が容易に手に居るとは考えにくい。内藤家のこの情報の入手ルートは、今後の課題としたい  

 (1) 岩崎弥太郎は?

三菱財閥の創始者である。彼は、先般のNHK大河ドラマ「坂本竜馬」の中にも登場し、強烈な個性を発揮していた。土佐藩の郷士浪人である。
図1)岩崎弥太郎図2)現在のグラバー邸(長崎)

(2) 郷士とは?

土佐藩の領域は戦国時代末期には長宗我部氏が統治していたが、長宗我部盛親は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に与して改易となった。この合戦において徳川氏に味方した遠江掛川城主・山内一豊が、新たに土佐国9万8000石を与えられた。以降、明治時代初頭まで山内氏が治めた。
当初、一領具足と呼ばれた長宗我部氏の旧臣が、山内氏に馴染まずに反乱を繰り返したため、山内氏は藩内の要衝に重臣を配して反乱に備えた。
藩政の中枢を山内家家臣(上士)で独占した結果、下位に位置づけられた長宗我部氏旧臣(郷士)との二重構造が幕末まで続いた。土佐藩の維新期の英雄たちの多く、すなわち、坂本竜馬、武智半平太、そして、岩崎弥太郎達は、実は、この郷士出身であったが、しかも、大成する前は、その郷士の浪人(地下浪人)であった。 40年以上郷士であった家は、特別に藩から名字帯刀が認められていた。(確かに、NHKの番組内で、岩崎弥太郎は刀をさして、商売していた)。
今回の報告では、慶応3年(1867年)であるから、彼は、晴れて、山内家の家来と名乗れたのである。

(3)岩崎弥太郎の簡単な歴史

弥太郎は、土佐国の地下浪人・岩崎弥次郎の長男として生まれた(1835年1月9日)。彼は、幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主・山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められる。21歳の時、学問で身を立てるべく江戸へ遊学し安積艮斎の塾に入塾するが、安政2年(1855年)、父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。父の冤罪を訴えたことにより弥太郎も投獄されるが、この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、後に商業に手を染める機縁となった。

出獄後は村を追放されるが、当時、蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、後藤象二郎らの知遇を得る。東洋が参政となるとこれに仕え、藩吏の一員として長崎に派遣されるが、公金で遊蕩したことから半年後に帰国させられる。岩崎弥太郎は、借財をして郷士株を買い戻し、1862年2月1日、27歳の時に、郷士・高芝重春(玄馬)の次女喜勢を娶る(27才)。

土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事していた弥太郎は、吉田東洋が、暗殺されると、その犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐市郎と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。しかし、必要な届出に不備があった事を咎められ帰国した(尊王攘夷派が勢いを増す京坂での捕縛業務の困難さから任務を放棄し、無断帰国したともいわれる)。この直後、大坂に残っていた井上は岡田以蔵らによって暗殺されており、弥太郎は九死に一生を得ている。帰国後、弥太郎は長崎での藩費浪費の責任なども問われ、役職を辞した。

慶応3年(1867年)に、後藤象二郎に引き上げにより、藩の商務組織・土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の経理を担当した。この時期に、坂本竜馬と接触が始まったとされる。今回の報告は、この慶応3年の出来事であるが、もう翌年は、明治元年となる年である。

岩崎弥太郎は、この慶応3年に、晴れて、土佐藩の長崎先出張所の所長として、貿易の先頭に立ったのである。 その後、明治元年(1868年)、長崎の土佐商会が閉鎖されると、開成館大阪出張所(大阪商会)に移る。翌、明治2年(1869年)10月、大阪商会は九十九(つくも)商会と改称、弥太郎は海運業に従事する。このころ、土佐屋善兵衛を称している。廃藩置県後の明治6年(1873年)に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマーク「スリーダイヤ」を作ったことは有名である。

図3)土佐山内家が用いていた「土佐柏」図4)岩崎家が用いていた「重ね三階菱」

【3】 内藤藩の資料から、慶応3年、岩崎弥太郎の長崎での活躍を示そう。

先にも、記したように、弥太郎は、慶応3年に、土佐藩の長崎での出先組織である土佐商会主任・長崎留守居役になり、赴任したばかりのころである。

大意は、
「長崎にて 書状をおくります。
  当三月(慶応3年) 御前で、指示のありました様に 英国商人のグラバーが所持している蒸気船 “レボツ―”を買い入れに際して、代価に関しては、今年3月から、来年2月まで、分割払いをするという約束になりました。別紙の通り 証書を取り交わしておきます。尤も、代価に関しては、 詰める予定です。証書において、印鑑をかわしますので、お知り置きください。意見があればお知らせください。
         松平土佐の守家来  岩崎某
     卯五月(慶応3年5月)

    別紙 約定書
1.ガンボード蒸気船   一艘
        但し、大砲、並びに、付属の器械も一切含む。
 代価は、 洋銀で、七万五千枚

右代価の内、 一万枚は 契約を交わした時に、渡します。
月払いの分 二万七千五百枚に加えて、 出航変化に際しての 入要費千ニ百五十八枚七分 を加えて一緒に払います。
二万八千七百八枚七分 (多分、写し間違いであろう。5拾が抜けている)

これに、利息として、半分 一万四千三百七十五枚三分に一割二分を加えて、  今年に三月一日から日数二十日の間に 払い入れます。
残り、半分は、今年七月の末までに 払います。
残りの銀 三万七千五百枚は、今年、三月より十二カ月以内に、利息一歩を加えて払います。
但し、 洋銀を得る時は、その時の相場で、 本金の内2朱だけ 取り除いて、合わせて、払います。

右の通り、約定の上は、 後々に 変更することはありません。
               松平土佐の守家来

   白日   
             ・・・・・・・ 英国グラバ殿 」


これは。卯年5月、つまり、慶応3年(1867年)5月の事である。
ここで、先ず目につくのは、岩崎弥太郎が、松平土佐の守の家来、“岩崎某”と、記しているところである。彼は、家来に復帰して間もなくであり、又、慶応3年3月10日に、土佐を出港して、土佐藩の出先である開成館長崎商会に赴任したばかりで、彼の気持ちに、少し、臆するところがあったのかもしれない。
しかし、弥太郎は、5月には、この証文にあるように、グラバーから、蒸気船の購入を交渉しているのである。長崎に赴任早々に、活躍していることが分かる。
三菱グループが、発表している、岩崎弥太郎の足跡を表す資料の中で、彼が、慶応3年に、外国社から購入した武器等の記録がある。それによると、

大砲: 10門
小銃: 1 5 0 0丁 (荷主:蘭・シキュート商会)、
帆船: (ベルギー・アデリアン)、
砲艦: (英・グラバー)
帆船: (英・オールト)、
帆船: (米・ウォルシュ)、
小銃: 5 80丁 (英・グラバー)、
小銃: 2 0 0丁 (蘭・ボーレンス)
とある。この中の、グラバーからの砲艦の購入こそ、今回の報告の蒸気船の事である。

弥太郎は、ガンボード艦を洋銀7万5000枚で購入しているが、一体いくらなのか?単位は、「両」ではなく、「枚」であるのは?
幕末時には、まだ為替がしっかり決まってはいなかった。そこで、銀の相場で計算をしているのである。1分銀に含まれる銀量から、それは、自国貨幣のどれだけに対応するということで決まっていた。このころは、対アメリカで考えると、洋銀3枚が米1ドルであったようだ。それで、日本のお金を「枚」という単位で表していたのである。今回の取引では、7万5千枚であるから、米2万5千ドルということになる。現在の為替で計算すると、250万円ということになるが、時代が違うからそんなに安いわけはない。1両は4分であるから、当時の値段で、1万8750両と云うことになる。1両は、現在の価値で言うと、約10万円だから、軍艦1隻が19億円程度であったことが分かる。

挿入してある船の写真は、この時期の同程度のサイズの船の写真で、今回の報告の船の写真ではない。イメージをつかみやすいようにご参考までと考えて頂きたい。

この頃の弥太郎の日記によると、慶応3 年6 月3 日、「天気快晴…午後坂本竜馬来たりて酒を置く。従容(しょうよう)として心事を談じ、かねて余、素心(そしん)在るところを談じ候ところ、坂本掌をたたきて善しと称える」とある。肝胆相照らすものがあったのであろう。
また、上洛する竜馬と象二郎を見送った彌太郎は日記にこう記した。「(慶応3 年6月)9 日、雨。…午後(象二郎と竜馬は)睡蓮(スイレン)船(のちの藩船夕顔)に乗る。商会の高橋が随行。…2 時、これ出帆なり。余および一同これを送る。余、不覚にも数行の涙を流す…」
この船の中で竜馬は、いわゆる『船中八策』をまとめた。「天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷から出ずべきこと。上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛(さんさん)せしめ、万機公論に決すべきこと…」で始まる、新しい国のグランド・デザインである。これは象二郎から容堂に建言され、容堂から徳川慶喜への建白書となって、歴史を大きく動かすことになる。
長崎商会の後事は彌太郎に託された。留守居役への郷士の起用ということは、象二郎の信頼の厚さを示している。

彌太郎は、竜馬が長崎を離れてからも、いろは丸事件(海援隊が、大洲藩から借用したいろは丸が、紀州藩の船と衝突した海難事故で、竜馬たちが、紀州藩から賠償金をせしめた事故)で、紀州藩と粘り強く交渉を続けて多大な賠償を取りつけるなど、引き続き海援隊の面倒をみた。
延岡藩の記録には、この「いろは丸」事件の記録も残っているのである。また、延岡藩が、いろは丸の船長から、心づもりや、技術的な事をインタビューした記録も残っている。「いろは丸」については、別のレポートで扱う予定である。

(3) ガンボードとは?

軍艦は、大きい順に、
砲列艦、フリゲート、コルベット、スループ、砲艦、ガンボート 
である。当時のイギリス海軍の記録をみると、フリゲート艦(約3000トン)、コルベット(約2000トン)、スル―プ(約1500トン)、砲艦(約800トン)、ガンボード(約300トン、全長 約30m程)という。岩崎弥太郎が、グラバーから購入した艦船は、ガンボードであるから、最も小さいクラスの軍艦である。

【4】 グラバーとは

長崎市の観光として、真っ先の登るのは、港を眼下に見る山の上のグラバー邸である。その最初の持ち主こそ、今回の一方の張本人、グラバーである。彼は、1838年スコットランド生まれ、1911年に日本で没している(享年 73歳)。維新期の武器商人として活躍する。1865年(元治2年)には、大浦海岸において蒸気機関車を走らせた。1866年(慶応2年)には大規模な製茶工場を建設。1868年(明治元年)には肥前藩(=佐賀藩との合弁)と契約して高島炭鉱開発に着手し、さらに、長崎の小菅に船工場(史跡)を造った。
明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めたが、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年(明治3年)、グラバー商会は破産している。

グラバー自身は高島炭鉱(のち官営になる)の実質的経営者として日本に留まった。1881年(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも所長として経営に当たった。また1885年(明治18年)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて、後の麒麟ビールの基礎を作った。弥太郎とグラバーは、経営の相棒であり、生涯の友人となったのだろう
図6)明治時代のグラバー邸(長崎大所蔵)図7)弥太郎とグラバー

【5】資料

資料1:1-29維新―305-5:「英国グラバ所持船買入事」(明治大所蔵)
資料2:長崎大学所蔵


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