延岡藩の紹介 

             

  明治維新は、日本歴史にとって、若者が国家を憂えて行動した革命であり、それ以前の、鎌倉幕府、室町幕府、徳川幕府の設立とは本質的に異なるものである。今の自分を、各自、タイムマシンにのって、安政時代に戻った時、私達は、その後の歴史の示す道を歩めただろうか と自問してみよう。  延岡藩という、九州の片田舎の7万石譜代藩の武士たちがどのような行動をとったのであろうか。歴史上は、目覚ましい活躍をした人はなさそうである。しかし、彼らも、時代のただならぬ雰囲気は感じていただろうし、何かをしなければと切歯扼腕の人もいただろう。

 明治大学に残る延岡藩内藤家の膨大な資料に、あの時代の若者の苦悩と、小藩が時代の大波にどう対処しようかと右往左往していく様子が眠っている。歴史の表には出てこなくても、その時代に、無名の人々がどう対処してきたかを見直す事は、時代の証拠としても価値があるだろう。 正確な資料をもとに、無名の藩のうごめきを150年後の今、少しでも、明らかにして、先祖の無念を晴らしてやりたい。

いざ始めてみると、このレポートは、延岡藩だけの事ではなく、日本各地の藩の出来事でもあるという一般性を感じるようになりました。これから報告する藩の出来事、京の戦、外国との接触、いずれも、日本中の藩でも同じ様な事を経験してきているのです。
日本各地の自分の藩の出来事と思って読んで頂くと良いかと思います。その意味で、「ある小藩の幕末」と副題を付けました。

【延岡藩とは】

現宮崎県延岡市を中心とした宮崎県北部と、現宮崎市の一部と、大分県の国東半島の北部と現湯布院あたりを領地とする。不思議なことに、現在「昭和の町」でヒットしている豊後高田市や、人気温泉地の湯布院など、今天下の地が多い。
九州では珍しい譜代大名であり、7万石を領した。
江戸時代に入ってからも、以下の表のように、計5大名が延岡藩主となっている。
これから当HPで扱う幕末は、最後の内藤家の支配下にあり、同家が、最も長く延岡と縁があり、125年を治めた。その中でも、幕末激動期は、第7代:政義(まさよし)と第8代:政挙(まさたか)の時代である。

右上図は、延岡藩の上屋敷を泥絵と言われる手法で描いたものである。今後のレポートにもあるが、延岡藩上屋敷は、江戸時代でもよく絵の対象となった観光名所である。現虎ノ門のそばの外堀に張り出した独特の配置をしている。

【延岡藩領地】

  
日向国(宮崎県)領地豊後国(大分県)領地

【延岡藩の歴代藩主】

家系石高年代
高橋氏外様 5万石1587〜1613年 (27年間)
有馬氏外様 5万石1614〜1691年 (78年間)
三浦氏譜代 2.3万石1692〜1712年 (21年間)
牧野氏譜代 8万石1712〜1747年 (36年間)
内藤氏譜代 7万石1747〜1871年 (125年間)

【内藤家】

名前官位藩主年業績
政樹(まさき)従五位下
備後守
1706−1766
(1747-1756)
陸奥国磐城平藩の第6代藩主。
日向国延岡藩の初代藩主。
陸奥国磐城平から日向延岡への転封(1747)
政陽(まさあき)従五位下
能登守
1739−1781
(1756-1770)
上野安中藩の第2代藩主・内藤政里の次男。養子
宝暦6年(1756年)政樹が隠居したため、家督を継いで第2代藩主となる。
政脩(まさのぶ)従五位下
備後守
1752−1805
(1770-1790)
尾張名古屋藩主・徳川宗勝の十四男。養子
政韶(まさつぐ)従五位下
能登守
1776-1802
(1790-1802)
第2代藩主・内藤政陽の長男。 天明8年(1788年)に第3代藩主・内藤政脩の養子となる。
寛政2年(1790年)政脩の隠居により家督を継いで第4代藩主となった。
政和(まさとも)従五位下
備後守
1787−1806
(1802-1806)
第3代藩主・内藤政脩の長男。養子。
1802年藩主。20歳の若さで江戸にて死去。
政順(まさより)従五位下
備後守
1796-1834
(1806-1834)
第4代藩主・内藤政韶の長男。養子。
正室は井伊直中の娘・繁子(井伊直弼の姉)。夫と死別後、充真院と称する。
繁子の実弟で養嗣子の内藤政義が後を継いだ
政義(まさよし) 従五位下
能登守
1820-1888
(1834-1862)
近江国彦根藩主・井伊直中の十五男。養子。
井伊直弼(直中の十四男)の同母弟に当たる。
文久2年(1862年)10月24日、養嗣子の内藤政挙に家督を譲って隠居した。
注>桜田門外の変=安政7年3月3日(1860年3月24日)
政挙(まさたか)従五位下
備後守
1852-1927
(1862-1869)
遠江掛川藩主・太田資始の六男。養子。
文久2年、政義が隠居したため、11歳で、第8代藩主となる。
幕末の動乱の中で、佐幕派として行動。
元治元年(1864年)の第1次長州征伐、幕府側で参戦。
慶応2年(1866年)の第2次長州征伐では幕府側で参戦。
慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いでも旧幕府方に与して藩兵を大坂に送った。
このため旧幕府方が敗れると新政府より謹慎させられた。

明治2年(1869年)6月の版籍奉還で延岡藩知事に任じらる。
明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免官された。

【幕末年表】

西暦年年号改元事件徳川天皇延岡藩関連
1853嘉永6ペリー来航(6/3)家定孝明7-正義
1854嘉永7
安政1
11/27日米和親条約(3/3)
京都大火(4/6)
伊賀上野大地震(6/15)
安政東海地震(11/4)
安政南海地震(11/5)
豊予海峡地震(11/7)
日露和親条約(12/21)
家定孝明7-政義
1855安政2飛騨地震(2/1)
安政江戸地震(10/2)=大火
家定孝明7-政義
上屋敷類焼
1856安政3 ハリスが下田に着任(7/21)
安政八戸沖地震(7/23)
江戸を台風が襲う(8/25)
家定孝明7-政義
1857安政4 家定孝明7-政義
1858安政5 慶応義塾前身
井伊直弼大老となる
飛越地震(2/26)
日米修好通商条約(6/19)
安政の大獄始まる(9/5)
安政5年〜安政7年:コレラ発生
家茂将軍職に(10/25)
家定
/
家茂
(12才)
孝明7-政義
六本木屋敷類焼
1859安政6横浜港開港(6/2) 家茂孝明7-政義
1860安政7
万延1
3/18桜田門外之変(3/3)
江戸城火災(3/18)
家茂
(14才)
孝明7-政義
桜田門外之変
1861万延2
文久1
2/19第1次東禅寺襲撃(5/28) 家茂
(15才)
孝明7-政義
1862文久2坂下門外之変(1/15)=安藤信正
第2次東禅寺襲撃(5/29)
生麦事件(8/21)
家茂
(16才)
孝明7-政義
8-政挙(10歳)
東禅寺の警護を拝命
1863文久3イギリス公使館焼打(1/31)
家茂上洛
長州藩下関で外国艦隊砲撃(5月)
薩英戦争(7月)
家茂
(17才)
孝明8-政挙(11歳)
延岡に檄文が出回る
1864文久4
元治1
2/20水戸天狗党挙兵(3月)
池田屋事件(6/5)
禁門之変(7/19)
第1次長州征伐(8/2)
四国連合艦隊下関砲撃(8/5)
家茂
(18才)
孝明8-政挙(12歳)
第一次長州征伐に幕府方で参戦
1865元治2
慶応1
4/7 家茂
(19才)
孝明8-政挙(13歳)
六本木屋敷普請
1866慶応2第2次長州征伐(6月〜8月)
薩長同盟
家茂20歳大阪城で死去(7/20)
孝明天皇死去(12/25)
家茂
/
慶喜
孝明
/
明治
8-政挙(14歳)
第2次長州征伐に幕府方で参戦
1867慶応3大政奉還の上奏(10/14)
王政復古の大号令(12/9)
いろは丸事故(4/23)
坂本竜馬死亡(11/15)
慶喜明治8-政挙(15歳)
1868慶応4
明治1
9/8鳥羽伏見の戦い(1月)
1/1に遡って明治1年とする
江戸城無血開城(4/11)
上野戦争=彰義隊(5/15)
奥羽戦争(5月〜9/24)
慶喜
明治8-政挙(16歳)
鳥羽伏見の戦いに幕府方で参戦
政挙:取糾の可能性もあり、謹慎の沙汰あり。
5月に許された
虎の門+六本木屋敷御願の上、御拝借領成り候(11/6)
1869明治2函館降伏(5/18) 明治政挙(17歳)
版籍奉還で延岡県知事に任じられる(6月)
虎の門、六本木屋敷の夜間見廻りの命令
殿様東京屋敷に御着座(5/1)
殿様寒中御機嫌窺(12/6)
1870明治3 明治政挙(18歳)
1871明治4 明治政挙(19歳)
江戸屋敷 上地令(7月)
廃藩置県で藩知事を免官される(7月)
上屋敷跡に工部寮設置
1872明治5 明治政挙(20歳)
1873明治6 明治政挙(21歳)

工部大学校設置


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