自己紹介

ペンネーム=出北方財

1>私の関心

私は、昭和45年、延岡高校を卒業し、東京の大学に入るため上京しました。理系大学院(博士課程)を卒業後、某企業の研究所に勤務し、昨年、退社し、自分の小さな会社を立ち上げました。現在も、最新技術情報とバトルをしております。また、今まで、技術系の本も単行本の形では4冊出版し、某大学大学院で技術系の講師をするなど、技術漬の人間の様ですが、一方で、落語が趣味で、40年以上かけて、こつこつ集めて今は、3000話を越すほどになっております。但し、カセットテープがほとんどなので、デジタル化が課題です。

また、世界史は昔から興味があり、イタリアのローマ時代の城壁や水道橋を調べる等という文化系の一面も持ち合わせていました。不思議なことに、年齢を重ねるにつれ、昔は関心が無かった日本史に興味がわき始め、仕事の傍ら、古墳探索や、古代日本史に興味をもち京都、奈良をよく探訪しております。また、暇を見ては、東京都心の歴史的場所の探訪をするのが、現在の楽しみとなりました。

 古代史、維新期の日本史に関心を持ち始めて、そういえば、延岡などの地方史、その幕末史などは、正式には、学校で一度も習ってこなかった不満を感じ始めました。人が集まり世界ができるように、地方史が集まり日本史ができているのです。小さな地方にも、歴史の流れを感じ、動かそうという力があったはずです。
 自分が少し年配になり、今までよりは少し広い範囲に目を配ることができるようになり、また知識も少し貯まってきた今こそ、自分流で延岡史を研究してみようと、研究者魂が沸き起こってきました。明治大学に、延岡藩内藤家の膨大な資料があることが分かり、同大学のご厚意で資料を閲覧させていただきながら、自分の好みに合わせて解析を開始しました。及び、国会図書館などの公的図書館の資料も大いに参考にさせて頂いております。1つのレポートに、一つ以上の本邦初公開といえる発見が入るように心がけております。そのため、文章化に時間がかかります。気長にお付き合いください。
落語の趣味の分も、レポートに含ませることも考えております。

2>私の育った時代

  私の育った時期は、幸せな時代だったと思います。小学生時代は、宮崎県高千穂の山奥(当時は、上野村といいました)で過ごしました。当時、小学校には、930人程が在籍しておりましたが、最近は、同小学校には30名程しか学童がいない様で、びっくりしました。当時、オールディーズの歌に、多分、ラジオで自然になじみ始めました。小学4年生の時に、山の中にも、ついにテレビがきました。そして同時に給食が始まりました。毎日が楽しくて楽しく仕方がなかったのを覚えています。テレビでは宇宙船シリカ、チロリン村とくるみの木、事件記者、後に、ひょっこりひょうたん島、数限りないほど好きな番組がありました。長島の入団と共に、田舎の小学校で野球三昧の毎日を過ごし、小学4年生の時の図書室で、夢の超特急の写真を見て、こんなのが走るなんて子供だましだろうと思いました。

  5年生になって、延岡に引っ越しました。6年生の時に、尊敬する人はケネディー大統領ですと答えた翌日に、日米回線が開通し、テレビの最初のニュースで、彼の暗殺されたことを知りました。世界は小さいのだなと子供心なりに理解しました。中学1年時に、オリンピックがあり、延岡を通る聖火ランナーを見に行きました。長くたなびく真っ白な煙が印象的でした。ところが、家のそばの日豊線を走っていた黄色いジーゼルカーの名前「ひかり号」が剥奪されたのでした。東京オリンピックの歪みでした。子供心にも権力の強引さを感じました。

  延岡中学3年ごろには、加山雄三の登場とエレキギターにしびれ、延岡高校に入ると、グループサウンズ、フォークソングがはやりだし、周りが大きな変化をしていました。高校2年の夏には、アポロが月着陸をし、大学入試の模擬試験を中断してテレビに見入り、そこに映った地球を見て、自分はあんなに小さい天体の中に住んでいるのかと窒息感を味わいました。後日、大学に入り、全国から集まった同級生が、同じような精神的ショックを受けたと異口同音に申しておりました。高校2年になると、大学紛争が激しくなり、ついに東大入試が中止となるほどの大きな社会ショックを経験し、日本はどうなるのかとわくわくしたのを覚えています。大学紛争直後の大学に入りました。それはそれは、刺激的で楽しい毎日を送りました。大学時代に、長島が引退し、引退試合を見に行き、自分が歴史に参加しているという感触を得ました。今思い起こしても、小学時代の山の中の生活と大学時代の楽しさが、自分のベストの日々でした。

inserted by FC2 system