火付盗賊改方が延岡藩を取り調べ 

No.24> 火付盗賊改と延岡藩 

    鬼と恐れられた火付盗賊改から延岡藩が目をつけられた。

今回のトピックス

  鬼平犯科帳で有名なった警察組織火付盗賊改方は、その取り調べが拷問を含んだ極めて厳しいものであり、
  対象が町民にとどまらず、武士にまで及んだので、皆から恐れられた。
  その火付盗賊改の取り調べが、なんと、延岡藩の江戸屋敷に及んだのである。

  その対象が、しかも御留守居役なのである。延岡藩としてもあわてたことであろう。
  但し、その経緯は、なぜか、日記に短い記述しか残っていない。

  とても大変なことなのに、簡単な記述だけということは、かえって、何があったのだろうと 疑問がわいてくる。

                                               (2014年9月28日)


【1】 江戸幕府の組織図に見る警察組織

右に、幕府の役職の概略を示したが、レベルII以下は大幅に略している。実際はもっと多くの役職がある。
当レポートで、いままで出てきた役職、今後出そうな役職だけを示している。
この中で、町奉行は、老中配下にあり、今回報告する火付盗賊改方は、若年寄の配下である。

【2】 町奉行と火付盗賊改

池波正太郎著の鬼平犯科帳で」有名な火付盗賊改方ひつけとうぞくあらためがた)とは、
表1にもあるように、若年寄り配下の江戸市中の取締まりを行う警察組織である。
この組織に似たものに、老中配下町奉行所系がある。
火付盗賊方の前に、演劇でよく題材になる町奉行を先に説明する。

(1) 町奉行

北町奉行(現東京駅前)と南町奉行(現有楽町駅前)があり、
1月ごとに北と南奉行所で交代して活動していた。

同じように、刀を差した武士でも、実は、文官(役方)武官(番方)があり、この町奉行は文官であった。
江戸市内の行政や治安に注力していた。

この北町奉行所と南町奉行所のそれぞれに、25騎の与力がいた。
与力は乗馬が許されていたので、「騎」と数える。与力は、300坪の屋敷が与えられていた。
現在の警察官の意味合いと裁判官の意味合いがあった。ただ、彼らは自分の管轄地域を持っていた訳ではない。
その与力の下に、各奉行所に、100人の同心がいた。

同心は武士の格としては、最下級の足軽級である。与力が200石程度の領地をもっているのに対し、同心は30俵2人扶持程度の雲泥の違いがあり、
与力は世襲であるのに対し、同心は基本1年契約で、毎年、大みそかに、与力宅において、再契約を通告されるのである。

同心とは、同じ仕事をするという意味があり、忍者を先祖とする伊賀同心、鉄砲組の「百人組同心」など種々の「同心」がある。
奉行所配下の同心の中で、現在の警察業務をする同心が、特に、廻方同心(まわりかたどうしん)とよばれ、
特徴ある巻羽織や髷(まげ)を結っており、着流しに、青足袋で、粋な姿で、右図の様な特徴を持っており、江戸市民はすぐに同心は分かった。
その中でも、定まった町を巡回し、町の治安を実際に担当している定町廻同心は粋な存在で町民の間で人気があった。
テレビ、映画に出てくる八丁堀の旦那は、この定町廻同心である。

八丁堀とは、町奉行の与力や同心たちが住んでいた(拝領した屋敷のある)町名である。
彼らは、刀を差して、その上、朱房つきの十手を帯にさしている姿がテレビ、映画で有名である。
テレビの人気ドラマの「必殺仕置き人」の中村主水は、この同心である。彼らは、100坪の家をあてがわれているが、最下級の武士のため扶持が少なかった。
しかし、大名等からの付け届けなどで結構裕福であったらしい。

彼らが、実際の町の治安を預かる訳であるが、江戸100万人の都市において、200人の警察官では、心もとない。そこで、同心は、私費で「岡っ引」を雇っていた。
岡っ引というと、銭形平次半七捕り物帳などを思い浮かべる。岡っ引は、武士ではなく、むしろ、街中に顔が利く、やくざに近い存在が普通であった。 取り締まる側か、取締まられる側か微妙な人間である。

この岡っ引はさらに「下っ引」という家来を持つこともあった。
「岡」とは、岡目八目などと言うように、「脇」という意味で、幕府の正式な人間でないのに大きな顔をして捕まえるという仕事をするため、むしろさげすみの言葉である。
正式には、御用聞きというのが正しいが、「岡っ引」の方が、人口に膾炙している。他に「目明し」ともよび、関西では、「手先」とよんだ。

テレビや映画でよく見る岡っ引であるが、彼らの十手には房は付いていない(朱房は与力と同心にのみ許されている)。
また、テレビのように、岡っ引には、逮捕権はなく、同心の許可がなければ、御縄をかけることはできなかった。
ドラマの歴史上のウソを多く見かける。

同心は、袴をはかなくても良いことになっている。右の図のように、中間に荷物を背負わせていた。
(与力の場合の中間は棒の先に挟箱をつけて、後ろ向きに肩にかけて運んだ)。
中間は腰に木刀を一本さしているのが普通である。同心の十手は、テレビとは異なり、背中にさしていた。
(腹の前にさしているのは与力である)。同心は、数人の岡っ引を連れている。

(2) 火付盗賊改方

江戸時代の火付け、盗賊などの特に重罪を取り締まるための組織である。
明暦の大火後に、盗賊が江戸市中に跋扈したため、1665年(寛文5年)に前身である盗賊改が設置された。1683年(天和3年)に火付改が設置された。

この組織は、町奉行と異なり、武官(正確には番方という)が担当した。色々、経緯はあったが、1718年(享保3年)、2つの組織は統合され、火付盗賊改方となった。
(提灯には、略して火盗とあった。右図)。

火付盗賊改方の頭(長官のこと)以下は、はじめは、幕府の御先手組から選ばれた。先手組とは幕府の軍事組織で戦になれば、最前線を担当する勇壮な連中である。
先手組が正式の組織で、臨時的に火付盗賊改方に組織されるという形(加役という)であったが、治安が悪くなった幕末の文久2年になると、正式の組織として格付された。

この長官は、基本的に一人であったが、幕末の一時期、2人となった時期もあったが、文久3年にやはり1人となった。
当初は、長官の下に、与力(5-10騎)、同心(30-50人の組織であったが、江戸の最晩年には、与力20騎、同心100人の組織となっている。

長官は、だいたい3千5百石から2百石くらいの旗本がこの御役を勤め、布衣、躑躅の間伺候の格で、
この職にある時はさらに御役高として千五百高が加わり、役料として四十人扶持を与えられ、文久3年(1863)には役扶持百人扶持となった。
長官は、1665年初代の水野守正(当時は盗賊改)から1864年の248代-戸田正意まで続いている。約200年で248代である。

御先手頭が火付盗賊改役を任命されると、籍は御先手組に残しておくが、城内へは出仕しないでよかった。この御役につくと、長官は、先手頭の上席となり、若年寄の支配ではなく老中の支配下に入った。

火付盗賊改役には、町奉行所のように一定した役所がない。本役の任期が一年程、当分加役は半年、増役は一時的というように、短期間でコロコロ替わるので、
拝命した御先手組頭の拝領屋敷が役宅ということになる。担当者が変わるたびに、役所が変わるのである。(注>幕末の最晩年には、公式の役宅が与えられている。)

火付盗賊改役の与力・同心の服装は町奉行所の与力・同心と同じであるが、髪は「八丁堀風」ではなかった。
彼らは武官であるから、軟弱な姿は似合わない。ゆえに町奉行所の与力・同心と見分けるのに髪を見ればわかった。(町奉行所系の方が粋な優男風である)。

この火付盗賊改方は、重罪犯罪者を扱うこともあり、最現場にいる与力や同心は、神官、僧侶、旗本、御家人まで怪しいと見ればどしどし捕まえてしまった。
町奉行所なら左記の人々は、支配違いとなり、どうしても直接捕まえるとなると、前もって管轄権をもつ寺社奉行や、目付役に事前連絡し、
了承を得たり立ち会ってもらったりする必要があるが、火付盗賊改役の場合は、機動性を持たされており、後程管轄の役所に連絡し渡せばよかった。
奉行所の与力は捕物出役には指揮者となっていて、よほどの時でないと直接手を出さなかったのとは大違いである。

火付盗賊改役は、逮捕権はあるが裁判権はなかった。容疑者に、犯罪を認めさせることが仕事ともいえる。
火付盗賊改方の取り調べは、厳しく、江戸にいる町民だけでなく、皆から恐れなれた。

町人一般であると枷を打って役宅内の溜りへ入れるか、または牢屋敷へ送り込み、神官・僧侶は寺社奉行に、諸藩の武士はその藩に、
旗本・御家人はその支配に、府外の百姓町人は勘定奉行に引き渡してしまう。

引渡すまでに相当手荒い取調べが行われ、時には幕府で決めた規定以外の拷問まで行ったから、たいていの者は白状してしまうし、
時には無実の者でも余り苛酷な拷問のため自白したり責め殺されたりした。

犯罪を減らすための特別の捜索隊であるから、町奉行所と違って、犯罪容疑者に対して少しの手心も加えなかったので、加役屋敷へ送られたら白状しない限り生きて出られないといわれて恐れられていた。

火付盗賊改方としての長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶため:長谷川平蔵)は、鬼の平蔵、略して鬼平と呼ばれた実在の人物であるが、
小説の中の話のほとんどは、フィクションである。(当レポートでも#3で例を挙げたように、残念ながら、時代考証もいい加減なものが多い)。

通常、火付盗賊改方長官は、1年か2年で交代していくのが普通であるが、
長谷川平蔵は、天明7年(1787年)9月19日 - 天明8年(1788年)4月28日と天明8年(1788年)10月2日 - 寛政7年(1795年)5月16日の2期(165代と166代)、
計2期、通算8年間ほどの長期間に火付盗賊改方の長官になっている。彼は、お役御免を申し出て、認められた3か月後に死去している。

ちなみに、長谷川平蔵の父親である長谷川 宣雄(はせがわ のぶお)も以前、第139代(明和8年(1771年)〜明和9年(1772)の)火付盗賊改方長官をしていた。
彼は、明和の大火の犯人:真秀を捕らえたことで、その後、京都西町奉行に転じている。

【3】 延岡藩に残る火付盗賊改方の記録

先にも記した様に、火付盗賊改方は、一般町民に限らず、あらゆる人を対象にした。他藩の武士も対象になった。
延岡藩の重役ともいうべき御留守居役成瀬老之進が、その対象になっているようなのである。
御留守居役というのは、江戸屋敷において、幕府、他藩との窓口になるいわば外務大臣の様な役割である。藩主、江戸家老につぐ重職である。
その彼が捜査対象になっている。

概略
「8月28日 曇り 昼後 折々の少雨
火付け盗賊御改め 都筑駿河守様 御組
同心 永森表平頭に 当六月 四倉
庵宅に 盗賊 立ち入り。 所持の衣類を 
承々(少々のことか)、その他 紛失致し候儀 これあり候。その旨
昨日 老之進宅に 罷り越し、尋ね これ有り候に付き
答書が出来 差出し候由。 亥年(翌文久三年)に慎み留
これあり
       但し、持頼のため、(人を)遣り候由
1.当年頭に 御用席より 上納に付いて これを
御書下され 今日、老之進は、 (火付盗賊改の)御用部屋に 持ち出し
銘し(サインをした)候。 (これで)相済み下され 左の通り
     二月十四日   大島味膳
      (披露済)  長坂平左衛門
             渡辺平兵衛   
            赤星七郎左衛門
            清水五郎右衛門  」

2)解説

ここでいう火付盗賊改方の都筑駿河守とは、第242代の長官である都筑峰暉の事で、彼は、文久元年(1861年)11月18日 - 文久2年(1862年)10月24日までこの職に就いている。
今回の文久2年(1862年)は、明治維新の6年前のことである。

8月26日の日記に手短に書いてあるだけなので、詳しいことは分からない。ここで、御用席とは家老級の重役のことである。
どこかに盗賊が入り、衣類が盗まれた。昨日、突然、御留守居役の(成瀬)老之進宅に、火付盗賊改方の都筑駿河守の同心である永森表平頭が訪ねてきて、
盗みのことを尋ねてきた。それで、延岡藩としては、質問に答える文書を差出、1年間の謹慎を申し出た。
(多分、嫌疑の衣類は、)上納するという重役からの一筆をもらって、早速、火付盗賊改の御用部屋へ行って署名をした。
これで、一件落着したというものである。

何があったのだろうか?まさか、御留守居役である老之進が盗賊を働いたのではあるまいね?。

【4】 資料

1) 延岡藩資料=1-9-22=「江戸万覚書ヲ姑クコトニ収ム」(文久2年=1862年)


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